http://yzkak.namidaame.com/ [Honey**]


弟だからね。

ありえん。ありえん。ほんまに本気でありえへん。
「あらどしたん、怖い顔してぇ」とのんきに話しかけてくるおばちゃんに愛想を返す余裕を、今の俺はこれっぽちも持ち合わせてはいなかった。
エレベーターが降りてくるのさえ待ちきれず、どしどしと非常階段でマンション内を怒りにまかせて駆け上がる。
何でこんな事態に陥っているんだろうと思いながら、俺は元凶のアホの顔を思い浮かべていた。


【弟だからね。】


「流ー!」

自宅のドアを蹴り開けんばかりの勢いで開けて、件の元凶の名前を叫んだ。
が、室内はしんと静まり返っている。だがしかし、あいつは絶対いるはずだ。
俺がいそいそと彼女とのデートのために、朝早くから準備していたのを、流がにやにやしながら見物していたのを俺はばっちり覚えているのだ。

「うわー日曜やのに早起きとか兄ちゃんすごいなぁ。俺は今日は一日寝たおすわぁ」とか言うてたよなぁ、あの野郎。

今思い返すに、あのときふふんと「おまえこそもう高2なんやし、デートくらいしたらえぇやん。硬派きどっとらんと」と兄貴ぶった自分が、なんかものすごく居た堪れない。
あのとき流はなんて言ったっけな。あぁもうほんま最悪やあのアホ!

もはや何回目なのかも謎な思いだし怒りをしながら、俺は弟の部屋のドアを蹴りつけた。
が、中にいる元凶は、一切焦りもビビりもしていないようだった。
ようやくごそごそと動き出した音がしたと思ったら、やたらゆっくりとドアが開いた。

「なんなん、静」

中から姿を現した弟は、眠そうに目を擦っている。

「なんなん、やないよ! おまえこそほんまなんなん! 俺になんの恨みがあんの!」

くそ忌々しいことに俺より背の高い弟は、きーっと喚いた俺をまだ眠いのかぼーっと見下ろしている。
そしてようやく合点が行ったのか、あぁと呟いてへらっと笑った。

「あ、ごめん。なんやももちゃん言うてもうたん? 俺と寝たって。だまっとったらえぇのに、要領悪いなぁ」
「そう言う問題やないやろ! っつかおま、おまえ……!」

言いたいことがありすぎて、逆に言葉に詰まった俺を、流は「まぁえぇやん、縁がなかったんやって」と、のんきに笑う。
それをおまえが言うんか、と、思った俺はどこまでも正しいはずなのに。

……なのになんで、こいつは自分の主張が世界の正義みたいな顔をしてんねん。


残念なことに昔から俺と流では流の方がモテた。
平凡顔の母さん似の俺と、ちょっと近所で噂になるくらい男前だった父さん似の流。
二つの年の差で保たれていた身長差も流が中二になった時点で消えてなくなった。加えて付け加えるならば、その後は逆の差がつく一方だったのだけれども。

でも、別にそんなことは良かったんだ。本当に。
俺の後ろに付いて回ってきていた流は、ずっと俺にとってかわいい弟だった。

だから「流くんってほんまかっこえぇよなぁ」と俺の淡い初恋相手やった女の子に言われても、まぁかっこえぇはえぇよなぁ、と、若干憮然としながらも、弟を褒められて誇らしいような気持の方が強かったくらいだし。
そう、別にだから、それはそれで良かったんだ。

なら問題は何かと言えば、あれなのだ。
なぜか俺よりよほどモテる弟は、昔から俺が好きになる相手にばかりちょっかいを出してくる。

最初は兄弟だから女の子の趣味が似ているのかと、のんきなことを思っていた俺は、高二の時、初めての彼女を流に寝取られて、「え、なんかそれ違うんちゃう?」と異変に気づく。
おまけに、話はそこでも終わらなかったのだ。
泣く泣くその子と別れたはずの俺は、数日後、その子に泣きつかれる羽目に陥った。

「あたし流くんに振られてん。ありえへん、なんなんあのブラコン。兄ちゃんの彼女やから興味あっただけで、別に好きやったわけでもなんでもないよってそう笑いよんねん。なんなん、静。どんな教育してんのあんた!」と最後の方はなぜか俺が責められた。

そしてぎゃんぎゃん騒ぐ元彼女を見ながら、俺はものすごいどうしようもない真実を知る。
あいつ、なんの当て付けかしらんけど、ほんまんになんの興味もないのに俺の彼女に手ぇ出してたんやな、と。


「っつうかありえへんやろ! なんでおまえ、もものことしっとんねん! もうおまえと関わるん冗談やないと思うて、おまえのことしらん子と付き合うたのに!」

同じ中学・同じ高校と俺に続いてくる流から逃れられると思ったのは、今年俺が大学に入学したからだった。
今までの狭い世界とは違う。いろんな地域から来た人と触れ合うそこは、当たり前だが俺の弟なんて誰も知らないのだ。
そのことがどれだけ俺を浮かれさせたか。
なのに。なのに、だ。

「なんでまたおまえ手ぇ出しとんの! ほんまもうなんなん、なんの嫌がらせやおまえ……!」

長身の流の襟首を掴んだまま喚く俺なんて、歯牙にもかけないみたいに弟はへらぁっと笑っている。
あぁもうほんまありえへん。

「やって、俺、お兄ちゃんのこと心配やってんもん。静、人えぇし、しょうもない女にほいほいひっかかるし」
「しょうもな……しょうもなって、しょうもなくないよ!」
「えーそんなん言うてるけどさぁ、彼氏の弟にちょっと迫られたからって浮気する女やで? しょうもなくなかったらなんなん」

「おまえが迫らんかったらえぇ話やろ」と脱力気味に呟いて、俺は、ひっつかんでいた流の襟首から手を離す。
そしてそのままずるずるとしゃがみ込んだ。

腹が立つのは、ちょっぴし流の言うことが分かってしまったからだ。
おまけになんでだか、本当になんでだか分かりたくもないのだけども、俺は昔から弟に対する怒りを持続できなかったりする。
流のほにゃんと笑う顔を見ると、もう駄目なのだ。
力が抜けて、なんやもうしゃあないなって気持ちになってしまう。

「静、胸大きてやらかい雰囲気の女好きやもんな。俺はもうちょい気ぃ強そうなアホの方が好きやけど」

やったらおまえはおまえの好きなタイプの女にだけ手ぇだしたらえぇやろと、心底思う。
顔はえぇのに。なんでこんな微妙に残念なんやろ、こいつ。

胸もいい感じにでかくて、ほんまこれぞ癒し系みたいな雰囲気を醸し出してたももちゃんは、俺の好みに完璧ストライクだった。

大学のサークルの新歓コンパで出会って、押して押して押して付き合いだしたのが二週間前。
四回目のデートだったはずの今日、一緒に行くはずやった映画を見る前に、俺はももちゃんにさよならを告げられた。

「ごめんな静くん。うち流くんを好きになってしもてん」

「あかん、あかんでももちゃん。あいつは最悪な男なんやって。ももちゃんが振り向いた瞬間にぽいっと捨てられるだけやで」と止めた俺は、ももちゃんの目には、弟に彼女を取られたくなくて必死の哀れな男にしか映っていなかったらしい。

「なんなん、静くん、そんな弟のことひどう言わんでもえぇやない」

「あたしが勝手に好きになっただけなんやから」と、泣いたももちゃんに俺はそれ以上なにも言えなかった。
ただ歴代彼女のその後を思い出すに、可哀想な未来がももちゃんを待ち構えているとしか、思えなかったのだけれども。

「流、おまえな。兄ちゃんとして一言言うとくけどな」
「ん、なに?」

俺の仲間内では、俺が流に甘い顔するからこんなことになってるんだと散々言われとるわけだけども。
自分のしたことを分かっているのかいないのか、あっけらかんとのんきな顔で笑う流を、俺はどうしたって突き放しきれずにきてしまっているわけで。
もしこれも流の計算のうちなんやったら、最悪や。

「あのな、おまえ。いつまでも兄ちゃんのおもちゃ欲しがる子どもなわけないんやから、ちゃんと自分の恋愛しぃよ」

こんなん高二の弟に言う台詞じゃない。
はぁっと深いため息を漏らした俺に、流は心底不服そうな顔をした。

「しとるよ、それくらい」
「……ほんまかおまえ」
「ただ相手がめっちゃ鈍うて気づいてくれへんだけやねん」

どこか切なげに言った流に、俺は愕然とした。まさかそれって。

「つまりあれやんな、それ。おまえ振り向かれへん腹いせに俺の邪魔ばっかしとったってことか……!」

ありえへん。本気ありえへんけど、なんやそれ可哀想やな、ちょっとだけ。

「……なんでそうなんのよ」

完璧呆れたような疲れたような弟の呟きを、照れ隠しだと思った俺はいっちょ励ましてやろうかという気分になる。
相手はかわいい弟だ。

「しゃあないな、ほな可哀そうな弟に兄ちゃんがつきおうたるわ。映画見に行く? タダ券あんねん」
「それ、今日ももちゃんにふられて使い道なくしただけやろ」

図星だ。が、その元凶はおまえやろが。
思ったが、俺は兄ちゃんの意地で苛立ちをぐっと堪えた。

「まぁええやん。ほんで行くの、いかんの」

どうすんのと見上げると、弟がなにか言いたいことをいろいろ堪えた顔をしていた。珍しい。

「しゃあないから、付きおうたるわ」
「そんな照れんでもえぇのに」
「……」
「なに、流。そんな微妙な顔で見られる覚えないで、俺は」

むしろあんなことされた後に、どんだけ甘やかしとんのやろ俺、とは思うけど。

「なんかあれやなって思って」
「ん?」
「俺が別にちょっかいかけんでも、静はすぐ振られるんちゃうかなってそんな気ぃしてん」
「なにそれどういう意味よ、おまえ」
「……そのまんまの意味」

気ぃ強うてあほでデリカシーない上に鈍いとかもう最悪コンボやもんな静、とこんなできた俺をけちょんけちょんにけなした癖に、まだ靴を履いていなかった俺の腕をつかんで「早よ、行こ」とほわんと笑う。
あぁもうほんまなんでこんな流に振り回されてんのやろ。

でも――たぶん。

一番厄介なんは、いい年して弟に振り回されて楽しいような気ぃしてる俺なんやろな。


【END】

お付き合いくださりありがとうございました!