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駆け落ちごっこ


「おーい、羽山」

マフラーに顔をうずめて校門をくぐろうとした時だった。
降ってきた声に立ち止まって視線を上げると、3階の窓から身を乗り出している朝倉と目が合った。

女子からよく「弟みたいで可愛い」と称されているガキっぽい笑みを張り付けたまま、
「なぁ、羽山。カケオチしねぇ?」
と、そいつは言った。



【駆け落ちごっこ】



携帯電話の電源は、駅に着いたときに二人で落とした。


「カケオチだからね」
と朝倉が笑って、「馬鹿じゃねぇの」と文句を言いながら俺も笑った。
調子に乗った朝倉が絡めてきた手を、「馬鹿だ」と繰り返しながら握り返した。
所謂恋人繋ぎの形状に、二人でまた笑って、そして、ホームに滑り込んできた普通電車にもつれるように飛び乗った。


夜の七時を過ぎたばかりの車内は、会社帰りのサラリーマンと部活帰りの学生で八割がた席が埋まっていた。
手を繋いだまま座席に並んで座った俺たちを見て、正面に座っていた女子高生の二人連れが一瞬ぽかんとした後、顔を見合わせる。

そりゃそうだろうと今の状況を冷静に顧みてみると、小さな笑みが込み上げてきた。
朝倉は、そんな視線なんて気にも留めず、頬を窓にくっつけて、小さい子どもがする様に藍色の世界を見つめていた。


「なにが見えんの?」

手を繋いだまま視線だけを合わせようと思ったら、驚くほど至近距離だった。
昔から変わらない柔らかそうな頬が、吐息がかかりそうな位置にある。

「んー、見えねぇわ」

不満そうに眉を寄せる横顔に、「見えなくはないだろ」と言い返す。
いくら田舎でもジャスコくらい光ってんだろ。

「あ、おまえの家」
「見えねぇって言ったばっかじゃねぇか。って言うか俺の家、絶対そっち側じゃねぇし。反対側だし」
「うっそ。あれじゃねぇの。ほら、あれ花ビルだろ?」
「いや違うし。っつうかおまえの方向感覚どうなってんの。おまえの家も向こうだろ」

朝倉の家と俺の家は、歩いて五分のご近所さんだ。所謂ところの、幼馴染みと言うやつなんだろう。
気が付いたら、傍にいた。なんてそんな台詞が似合ってしまう、そんな関係。……だっだはずだ。

「あーおまえの家じゃないけど、とりあえず遠くなんな」
「ホント、おまえ適当な」

呆れたように苦笑を漏らすと、「おまえに言われたくねぇよ」と唇を尖らして朝倉はまたこれ以上無理なくらい額を窓ガラスにくっつけた。

「だからなに見てんの。そんな面白いもんある?」

「いや?」朝倉の愛嬌のある丸い瞳が俺を見て、それからふっと笑んだ。

「どこ行こっかなって」

ゆるゆると電車が減速して、停車駅の名を告げる。女子高生の2人連れが俺たちの方をちらちらと見ながら足早に降りていく。
その背を見送りながら、「どこでもいいけど」と俺は言った。

「駆け落ち、なんだろ? 別に当てがなくてもいいんじゃねぇ?」
「そっか」

俺をまじまじと見た後、腑に落ちたように朝倉が頷いた。

「それもそうだな」
「どこでも付いていってやるから、安心しろよ」

ガタンゴトン、とまた電車がゆっくり加速し出す。
その雑音にかき消されそうな声でふと吐き出してみる。「おまえが居るんなら」

数秒無言で朝倉と向き合って、噴出したのは朝倉が先だった。

「あー、ずっりー! 羽山、なんだよそれ。男前すぎんだろー?」
「おまえが駆け落ちだっつうから雰囲気出してやったんだろうが。っつうかこれ家出ですりゃねぇだろ、なんなんだ」
「駆け落ちじゃなかったら、そうだなぁ。あれじゃね? 大学受験を前にノイローゼに陥った受験生二人の青春の逃避行」
「おまえ、受験ねぇだろ」
「……」
「いいよな。もう推薦決まってんだろ。東京か、いいじゃん。一人暮らし」


朝倉は、何も言わなかった。
ただ流れていくなんの変哲もない夜を見送り続けている。
いいじゃん、一人暮らし。
もう一度、口の中だけで呟いてみる。

ずっと。ずっと、近くにいた。べったり常に一緒だった訳ではないけれど、いつだって視界の片隅には必ず朝倉が居たように思う。
苦しくなったとき、膝を着きたくなった時、知らず目線で探してしまうのはいつも決まっていて。そして朝倉も、そんな俺を見透かしたように、へらっとした顔で笑って待ち構えてくれていた。
それが俺たちの距離で、朝倉にとっても、きっと俺はそんな存在だったのだろうと信じている。

でも、それも、終わる。


「あ、海」
「……見えないだろ、それこそ」

電車がまた減速し始めている。昏いそこを朝倉はただ眺めていた。

「見えなくても、絶対海の匂いするって。なぁここにしよ。きーめた、俺!」

な、と小さいころから変わらない笑い方で、首肯して、ぎゅっと握りあったままだった手を深く握り込む。
「どこでもいいって言っただろ」と応えるように手を握り返した。
停車駅を告げてドアが開く。手を繋いだまま、子どものように2人で顔を見合わせてホームに飛び降りた。

中学生の時に遠足できたことのある場所だった。冬の空気に交じって微かな潮の匂いがした。無人駅だから、咎めるような駅長もいない。
電源を落とした携帯は鳴らない。夜遊びなのだろうか。家出なのだろうか。

吐き出したい気は白い。隣を見上げると、視線が合った朝倉がにこっと目元を笑ませた。
小さいころは俺の方が身長が高かった。
いつだったか並ばれて、逆転されて、悔しくて拗ねて見せたことがある。

引っ込みがつかなくなったまま、一週間ほど口を利かなかった。
でも喧嘩の終わりはあっけなかった。「しゃあねぇなぁ、真咲。俺のローラーブレードやるから履けよ。ほら見下ろせるだろ」

にまっと笑った朝倉だったが、それがおちょくっているわけではなく、悩みに悩んだ挙句のことだったらしいと分かったから、つられて笑ってしまった。

その後ろで、母親が微笑ましそうに俺たちが手を繋ぐのを見守っていた。あのころは。


――あのころなら。


誰もいない冬の海辺を歩いた。

どこに行くあてもない。終わりがない。けれどいつか終わらせなければならない。
いつしかしょうもないことばかりをとりとめもなく続けていた会話も止んでいた。
冷たい風が頬をなぶっては過ぎていく。砂浜の砂が舞い上がったようで、視界がかすんだ。痛む目を擦ろうと立ち止まる。

朝倉の手が離れた。そう認識した時には抱き込まれた後だった。
予想外の勢いに支えきれなかった身体は、背中から砂浜に倒れ込む。

舞い上がった砂にむせそうになりながら、おまえなぁと文句を言おうとするより早く、

「今だけでいいんだ」

今にも擦り切れて消えてしまいそうな声だった。
耳に直接注ぎ込まれるように、脳内に堕ちてくる。

「今だけでいいから」

海風でかき消されてしまいそうなそれは、けれどどうしようもなく強く響いた。
強く聞こえた。
今にも消えてしまいそうなのに。

コートの上から縋りついてくる指先は力が入りすぎているのか、それとも寒いのか、やたらと白く見えた。

「もう少しだけ、このままでいさせて」

朝倉の健康的な黒い髪の毛が散らばって、頬をくすぐった。
砂浜に着いたままだった手を、朝倉の背に回そうかと一瞬浮かせて、けれど果たせないまままた砂浜に堕ちた。
掌に、ざらざらとした流砂の感触がある。

「今だけ?」

ようやく絞り出した声は、ひどく静かで、そのことに俺は驚いた。
朝倉の肩が少し震えて、けれどすぐに「うん」と頷いた。

「うん、今だけ」
「本当に?」
「うん、今だけで、いいんだ」

それは今だけが良いと言っているのと同じだった。
俺は微かに目を閉じて、それからすっと息を吐き出した。


「ずりぃよ、おまえ」

朝倉は何も言わなかった。

「ずりぃ」

何がだなんて、分かってるくせに。
何も答えない癖に、縋りついてくる手も放そうとしなくて。俺はもう一度深く息を吐いた。

「今だけじゃないなら、いい」
「……羽山」
「おまえはさ、これから先、俺と一緒に居たくないの。今してることをこれからもしたくないの」
「俺はッ」

溜まらなくなったように、朝倉が短く叫んで顔を上げる。
暗闇の中、なぜか朝倉の瞳だけがはっきりと見えた。ゆらゆらとじれったく揺れている。
熱に絡まれたと、思った。

吸引するように視線が引きあって、朝倉の指先がそっと俺の頬に触れた。輪郭をかたどるように触ってそれから、唇が降ってきた。
かさついた唇が唇に当たる。キスと言うにはあまりに稚拙な単純な接触。

泣き出しそうに朝倉が顔を歪めて、

「俺がどんだけ我慢してたと思ってんだ」

と言った。



二度目のキスは、深かった。
口の中を蹂躙し、踏み入ってくる舌先を逃れるつもりもなく受け入れながら、このままどこまでも絡み合って解けていければいいのに、と馬鹿みたいなことを願っていた。


遠くで耳鳴りのように海が泣いていた。


ずっとずっと、近くにいた。振り返れば朝倉がいる。あるいは呼びかければ前を歩いていた朝倉が立ち止る。
手なんて繋いでいなくても、言葉で関係なんて定めなくても、ずっとずっと近くに居られた。

今までは。今までなら。


好きだと口にしたことはなかった。でもお互い知っていた。

どちらかに彼女が出来ても長くなんて続かなくて、二人とも振られる理由は同じだった。
「いつも羽山くんとばかりつるんで」「なんで朝倉くんとの約束ばっかり優先するの」「あたしより幼馴染みが大事なわけ?」「あたしのこと、好きじゃないんでしょ!」

そんなことないよ、ごめんな。と人当たりの良い朝倉は心底申し訳ないと言う顔で謝る。
けれどその直後、「じゃあ今度の土曜日、あたしとデートしてくれるよね」そう微笑む少女になんの罪悪感もなさそうに笑うのだ。

「悪い、土曜は羽山といるから無理だわ」

そして呆れ顔の少女に振られる朝倉を、俺はいつも待っていた。

朝倉もきっと同じだったと思っている。
好きじゃないわけじゃねぇよなぁ、と困ったように朝倉が零す。優先順位の話じゃねぇのと俺は請け負った。

優先順位。それは一体何の優先順位なのだろうか。

――知っていた、けれど。


誰も見ていないと、俺の部屋で眠りこけている朝倉の手に触れてみたことがある。
小さいころ、仲直りの印に繋いだ柔らかい指とは違う、節の目立ち始めた固い指だった。
身長はあのころから30センチは伸びた。相変わらず、10センチほどこいつの方が高いけれど。

大人じゃないけれど、もう子どもでもない。
こんな風に指先を絡めることが異様なことだと言うことを知ってしまっていた。

もう、誰も微笑ましく見守ってはくれないのだ。俺たちを。


そうして俺は、母親の口から朝倉の選んだ未来の話を聞いた。

「恭介くん、東京の大学の推薦決まったんだって、おばさん言ってたわよ。すごいねぇ」

そんなの、俺は知らなかった。

「あんたはこっちの残るから、寂しいわね。ずっと仲良しだったのに」

そんなの、知らなかった。
知らなかった。


知らなかったよ、俺は。



「なんで聞かなかなかったの。知ってたんなら」

何度も繰り返したキスの後、ぽつりと朝倉が耳元に声を落とした。
近すぎて、表情は判別がつかなかった。朝倉の前髪が耳に降りかかって来ていて、その感触がなぜかやたらと気にかかった。

「ずるいだろ、それも」

離れようとしたのも、決めたのも、全部おまえで、ひとりでしたくせに。
止めて欲しかったのなら、もっと早くに言えよ。悩んでいたんなら、相談しろよ。気づかせろよ。
おまえも俺と同じだと思っていた俺に、違うって、違うんだって、ちゃんと教えろよ。

「なぁって、朝倉」

肩を押して距離を取る。暗闇に慣れた瞳が、ぼんやりと朝倉の表情を捉える。
張り詰めた顔で、口元だけ無理やり笑みを作ろうとしていた。失敗していたけれど。

「捨てるのは、おまえだろ」
「……知ってたくせに、おまえも聞かなかったじゃん」
「どこの駄々っ子だよ。そもそも俺が知ったの、1週間前の話なんですけど。しかもおまえから聞いたわけですら何でもないんですけど」
「馬鹿だもん、おまえ」

乾いた笑みを漏らした朝倉の指先が輪郭を象るように頬に触れる。ざら、と砂の感触がした。

「おまえ、馬鹿じゃん。馬鹿だから、俺がずっとここにいると思ってたんだろ。俺も地元で、大学行って、そのまま地元で就職して、ずっとずっとって」
「……」
「そんなわけねぇだろ、ばか」

絞り出した声音に、好きだったと言われた気がした。

「そんなわけ、ねぇんだって。なぁ、羽山」

頬から朝倉の指が離れて、砂浜に落ちた。
ぐっと握りしめられた拳の上に、ゆっくり手を這わす。こんな夜の海岸で、抱き合うように転がったまま、なにをしているんだろう、とふっと思った。

あぁ、違う。――駆け落ち、だ。
どうにもならない、恋心を捨てに来たのだ、これは。


「おまえさ、俺が寝てると思って、よく俺の手に触れてただろ」

そう問われて、俺は知らず息を呑んだ。見下ろしてくる朝倉の瞳は気持ち悪いくらい、優しくて。失笑するしかできなかった。

「知ってたのかよ」
「うん。ばかだなぁって思ってた」
「ホント、ずるいよ、おまえ」

捨て台詞染みたそれに、「そうだね、俺もそう思う」と朝倉が笑った。


「ずるいんだ、俺」

ゆっくりと指先が絡め取られていく。凍えそうな冬の夜だと言うことを思い出させるかのように、その指先は冷たかった。
誰も微笑ましくなんて、もう見てくれないなんてこと、知っている。


俺だって、知ってたよ。でも。


繋ぐ指の隙間で、砂がざらりと擦れた。


「駆け落ちごっこだから」


冗談を紡ぐみたいに笑った朝倉の唇が、唇の端を掠めていった。
ごっこ遊びが終われば、消えてくれるのだろうか、この役割も。

潮の匂いが鼻について、喉が塩辛かくて仕方がなかった。




【END】

お付き合いくださりありがとうございました!