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天使なあの子

初めて憂に会ったのは、俺が中2で憂が5歳の夏だった。

隣の家に引っ越してきた憂は、なんていうか、もうめちゃくちゃかわいかった。とにかくかわいかった。
おばちゃんお手製のぴらぴら服を着て、にこにこ笑って、とてとてお兄ちゃんと俺の後をついてくるのが、もう天使なんじゃねぇのって疑うくらいかわいかった。

ところで当時俺は、絶賛反抗期中のクソガキだったわけだが、そんな殻がどうでもよくなる程度には、憂にやられきっていた。
俺に懐いてくる愛しい5歳児の相手をするとなると、夜遊びなんてしてる場合じゃないわけで。学校が終わると速攻で家に帰ると言う行動パターンがいつの間にか身についた俺は、夜遊びから卒業して真面目な中学生に戻ってしまっていた。

そんなだからうちのお袋は、いまだに憂に頭が上がらなかったりするのだけれども。

にっこにっこ笑顔で、「もー憂ちゃんさまさまだわぁ」と当時5歳の憂に、餌付けと言う名のクッキーを与えていた母親に便乗して、「憂、将来お兄ちゃんと結婚するかー?」とでろでろの笑顔で俺も言ってみた。
小さな口元に、クッキーの食べかすを付けたまま、きょとんと大きな目をさらに大きくした憂は、こぼれんばかりの笑みを浮かべた。

「うん! 憂、お兄ちゃんと結婚する!」

もひとつおまけに、俺にちゅーっとキスまでしてくれた憂に、あ、違う。かもじゃねぇ、間違いなくこれは天使だと確信した。
今は5歳でも、10年後には24と15だもんなー。15年後には29と20だ。全然いける。
天使(断定)をもぎゅーっと抱きしめながら、にへにへしていた俺に、お袋が何とも言えない顔をしながらも何も言わなかった理由が今ならわかる。

……分かりたかったかどうかと言われると、もんのすごい微妙なラインなのだけれども。


【天使なあの子】


「真尋―、いつまで寝てんだ、起きろ、遅刻すんぞ」

朝だ。朝と言うからには起きなければならない。
いくら言い聞かせてみても眠いもんは眠い。社会人になっても、俺の低血圧は残念なことにあんまり変わっていなかった。
いやでもあと5分布団でぐずぐずするだけの時間はあるはずだ。うん、ある。
さらなる言い訳を脳内で繰り返して、俺は二度寝を決め込んだ。

「おい、起きろって。この元ヤン」

俺が抱き込んだ布団をひきはがそうとぐいぐい上から引っ張られたが、俺の方が力は強い。
昨日まで中学生だったガキに負けるかっつうの。
人様の部屋に朝っぱらから乱入してきているお子ちゃまに、内心ほくそ笑んでみた俺の矜持は、次いで落とされた台詞で吹き飛ばされたのだけれども。

「しょうがねぇなー、天使な俺がおはようのちゅーしてやろっか、お兄ちゃん?」
「……憂」

にっこりエセ臭い笑顔で見下ろしている元天使に、俺は布団を跳ね上げて長い溜息を吐く。
が、そんな攻撃が一切効かないのが憂の憂たる所以なのだった。

「うわ、ひっでー。朝一で起こしに来てやった幼馴染に対する対応がそれかよ」

もっと感謝しろよ感謝ー。真尋の天使ちゃんなんだけど、俺ー、天使のお目覚めだよ天使のお目覚め。
けらけら笑う憂に、俺は再度深い溜息を吐いた。

あぁもうあのころの紫の上計画を狙ってた俺に、小一時間説教してやりたい。

「っつか天使のお目覚めってどこのラブホだよ、おまえ。まさかと思うけど行ってねぇだろうな」
「入れるわけねぇじゃん。まー、モテないからって5歳児に手ぇ出す真尋ほど寂しい中学時代送ってはないけどねー」
「……っつうかおまえ、今日入学式じゃねぇの」
「え、そうだけど? 朝一に真尋に俺の制服姿見せてやろうかなって思って。だからここに来たんじゃん」

なにを当たり前のことを聞いてるんだと言わんばかりの偉そうな憂の態度に、そうかそうか、と、わしゃわしゃ頭をなでてやる。
あのころの素直で愛らしかったおまえはどこに消えたんだ。

似合うだろ? とにこやかに笑う憂に、似合う似合う、と適当に返事をして、俺はのっそり布団から抜け出した。
まぁあれだ。美少女を脱して天使から悪魔に成り代わっても、こいつ顔は良いからな。
若干制服に着られてる感があるけど。

「なぁー、真尋ー、早く準備しろって」
「って、おまえ言っとくけど、一緒に登校とか絶対しないからな。っつうか頼むから俺の話を学校ですんなよおまえ」

言った瞬間、え! と憂が表情を止めた。

「いやだって、あんまよくねぇだろ。生徒と教師が幼馴染だとか」
「生徒が教師の天使で許婚だとか」
「だからそれは違うって、っていや違くはないけど、10年前の憂ちゃんであって、今のおまえじゃねぇ!」

あぁもうなんでこんなことになったんだ。
叫び返しながら、俺は俺の不運を思い返していた。
そりゃ地元で公立高校の教師とかだったらもしかしてと思わないこともなかったけど、こうもドンぴしゃで配属された高校に憂が入学してくるとか、有り得ないだろ。
どんなラノベだ。……まぁ、憂が本当に女の子だったら、だけども。

「なにそれそれじゃ俺が一高入った意味ねぇじゃん」とか訳の分からんことをぶつくさ言ってる憂に、「とっとと家戻れ」と頭をぺしっと叩くと、ものすごい恨みがましい目を向けられて、反射的に俺は身を引く。

……天使だなんだとべろ可愛がりしてきた習性か、俺は、ほぼ自分とタッパすら変わらなくなってきたっていうのに、憂に最終的にかなり弱い。

「いたいけな俺のファーストキス奪っといて、ひでぇよ真尋! 責任とれよなセキニン!」
「責任って、っつか頼むからそれ学校で言うなよ、おまえ、マジで頼むから!」

ロリコンとか俺一番思われちゃ駄目な職業じゃねぇか。

「じゃー、黙っててやるから今の俺とちゅーして」
「……は?」
「だから責任。責任もらって俺が真尋もらったげるから、ちゅー」

いろいろ突っ込みたいところはあるが、なんでおまえが俺をもらう側なんだ。
「ちゅー」と言葉だけは俺の記憶の中の天使みたいなことを言いながら、唇を尖らしている憂の頭を、もう一発ぺしっと叩く。
「ひでぇよ横暴だ横暴」とぎゃんぎゃん騒いでるのがちょっとだけかわいそうになって、叩いた頭をよしよしと撫でてみる。
これ以上あほになったらまずいしな。

「………高校入る前から、頭ん中お花咲きすぎてんじゃねぇの」
「真尋、まじひどくね、それ? 教師としてどうなの、その暴言」
「今は教師じゃねぇよ」

あと1時間後には教師だけど。
そう言うと、なにか企んだ顔をした憂にぐいっと腕を引かれた。
「あっぶねーなお前」とか「なにすんだ」とか文句を言うはずだった声は、あんまりといえばあんまりな衝撃に立ち消える。

っつか、何。
今がまだ夢の中って言うんじゃなきゃ、俺、憂に、キスされなかったか? 唇に。

「今、教師じゃないんだったら、今は俺のって解釈でいいの?」

にっこり、天使の面影の残る顔で笑った憂は、だがしかし、どちらかと言わなくても悪魔に見えた。

「……そんなわけねぇだろ」
「何その反応、つまんねー! っつか高校3年間で見てろよ、真尋! 絶対俺のもんにすっからな」

いい加減馬鹿じゃねぇのこいつとか、もしかして憂のこれって俺が小さいころに好きだ好きだって刷り込みしすぎたせいなのか、と若干の責任を感じながらも、「入学式行けこら」と俺は憂を追い出した。

「ひっでぇ愛がなさすぎる!」と締め出したドアの向こう側でわめく憂に、とりあえず、人をもの扱いすんじゃねぇよ、と教育的指導はしてみたのだけれども。
「真尋のあほ、見てろよ、この俺の成長を!」としつこく叫んでいる元天使に、俺はこれからの3年間の日常が見えたような気がして、うっかり引きつった笑みを一人しかいない部屋で浮かべてしまったのだった。


【END】

お付き合いくださりありがとうございました!