http://yzkak.namidaame.com/ [Honey**]


愛を乞う人《前》

5年間、音信不通だった兄貴が死んだ。

奥さんとも離婚して、男手ひとつで子育てだ仕事だと馬鹿みたいに頑張っていたらしい。それでとうとう会社帰りに、駅の階段でくらっときたんだとさ。過労だ。で、落ちた。よりにもよって最上段から。意識が飛んでいたから受け身を取ることもできなくて。それで――死んだ。

馬鹿じゃねぇのと思った。なんて言うか、兄貴らしすぎた。
お人好しで要領悪くて、でも人一倍優しくて。……でもそのくせ、微妙に空気が読めなくて、いつもどっかピント外れの気ぃまわして、一人でわたわたしてたっけ。

馬鹿じゃねぇの。いくら喧嘩別れしたからって、たった一人の肉親だろ。そんな切羽詰まってたんなら、ぶっ倒れる前に俺に頼れよ。

どうせ今頃天国で、自分が急に死んだせいで仕事に穴あけてないかだとか、あぁでも転げ落ちた時に誰も巻き込まなくて良かったとか思ってんだろ。一人遺した息子の心配もしてるんだろうけど、ほんと、馬鹿じゃねぇの。

俺は何年かぶりに一人であほみたいな量の酒を飲んで、笑って笑って、最後にちょっとだけ、泣いた。


【愛を乞う人】


「そーすけ」
「なに、そうくん。そんなぶすくれた顔しても駄目だかんね。そうくんは今日から保育園行きます。わかった?」

部屋を素直に出たところまでは良かったんだ。築年数20年強とそれなりに年季の入った夢見荘の外付けの階段を降り切ったところで、そうくんはぴたりと足を止めてしまった。
じっと俺を見上げてくるちょっと細い目は、兄貴によく似ている。きっともっと大きく鳴ったらかっこいい切れ長になるんだろう。

「俺もいつまでも仕事休んでらんないんだって。夜にはちゃんと迎えに行くからさぁ」

がりがりと頭をかきながら言った俺に、そうくんは恨みがましい目を向ける。無言の訴えってやつだ。
でもそれに絆されるわけにもいかないじゃないか。こうなったら実力行使だと、俺はひょいっとそうくんの小さい身体を抱き上げる。

「……そーすけ!」
「だから駄目なもんは駄目なのー。まぁいいじゃない。きっと美人で優しいお姉さんが待ってるよー」

俺が手続に行ったとき出迎えてくれたのは、丸々としたおばさん先生だったけど。そうくんがどんどんと俺の胸板を叩いてくるのを無視して歩き出す。
そのうち、そうくんは諦めたのか、叩く代わりにぎゅっと上着を掴んできた。

その健気な仕草にほんのちょっとだけ可哀そうになって、よしよしとそうくんの頭を撫でてみる。
ふさふさとした柔らかい感触まで、兄貴の髪の毛に似ている気がしてしまって、勝手に頬が緩んだ。これも思い込みと言うやつなのだろうか。それとも、俺の願望か。


兄貴の葬儀の後、気が付けば俺はそうくんを引き取ってしまっていた。
俺が一人で住んでいた6畳一間の夢見荘は、決して広いとは言えないけれど、まだ5歳のそうくんが一人増えたところで生活に支障をきたすほどじゃない。
まぁ、なんと言うかレトロなアパートではあるから、そうくんが走り回ったり大泣きした日には下の階の住人に文句を言われそうで心配してはいたのだけれど、今のところそれも大丈夫そうだった。

もしかしたらそうくんは、父親が死んだと分かっていないのかもしれない。
俺のもとに来てからそろそろ2週間が経つわけだけど、そうくんは、泣くことも暴れることもなく、いたって穏やかに緩やかに日常を消化し続けている。


「って言ってもさ、その方が不健康じゃねぇの。俺だって子育てしたことあるわけじゃないから、よく知らねぇけど」

ここ最近の習慣になってしまった子育て相談を終えた俺に、孝信は小難しい顔で首を傾げた。まぁそうなんだよねぇ、と俺も眉間に皺が寄る。
5歳の子どもと言うものがどういったものなのか、今一つよく分かってはいない俺だけれども、ちょっと動揺しなさすぎじゃないかと思ってもいる。
そうかと言って、大泣きされても困るんだけどねぇ。

物心ついたころから一緒に育っている孝信は幼馴染みみたいな存在だ。26になった今も、当たり前の様な距離感で俺の隣に存在してくれている。
今日も仕事の帰りにふらりと俺を迎えに来てくれた孝信を伴って、そうくんを預けていた保育園に向かう。住んでいる場所が夢見荘の204号室と205号室とお隣さんなので、帰る場所は一緒だ。

「でも今日はねぇ、保育園行くの渋ってたよ。ちょびっとだけどね」

初めてそうくんの嫌そうな感情見れたよ、と微笑うと、孝信は少し安堵した表情を見せた。

「でもまぁ、そうは言っても、宗佑だって仕事ほいほい休めねぇもんな。可哀そうだけど」
「って言っても結構融通利かしてもらってるんだけどね。助かってる。おかげでこの時間にそうくん迎えに行けるんだし」

専門学校を出て勤め始めて6年目。俺が勤めているレストラン美好は、アットホームな雰囲気と気軽に食べられるフレンチが売りの街の洋食屋さんだ。オーナーもスタッフも気の好い人ばかりで、俺はそこで働けていることに感謝している。

今回もそうくんの引き取りや兄貴の葬儀で2週間近くも休ませてもらった上に、そうくんが慣れるまでは、と、ランチ中心の勤務形態に都合を付けてもらっているのだ。
「まぁでも無理はすんなよ」と孝信が言う。

「何が?」
「何がって――……」
「あぁでも俺、案外そうくんのお世話、苦じゃないんだよね。結構懐いてくれてる気がするし、かわいいよ」

「子どもそんな好きじゃなかったんだけどね、変な感じ」と応じた俺に、孝信は微妙な顔をした。言いたいことを飲み込んだみたいな、そんなあれだ。
はっきり言えよなと思ったものの、人生の大部分を共に過ごしてしまっている経験から、この顔の孝信は言わないだろうなと分かってしまう。
だから溜息ひとつで、俺はそうくんを預けていた保育園の門扉に手をかけた。


三好と夢見荘のちょうど中間地点にある保育園に運良く、そうくんは入園することが出来た。一人で家に置いておくこともできなかったし、助かったのだけれど。
そうくん、結構嫌がってたなぁと今朝の様子を思い出して、ちょっとだけ保育園で泣いてたりしなかっただろうかと不安になる。

「秋吉です」と名前を告げると、昨日も手続きをしてくれたおばちゃん先生が「宗太くん、良い子にしてましたよ」と微笑んで、そうくんを連れてきてくれた。
ぎゃんぎゃん騒ぐそうくんと言うのも俺の想像の範疇外だったが、ほっとしたのも事実だ。俺の前だけで感情を抑えているわけじゃないらしい。
それはそれで、不憫な気もするけれど。

「ごめんね、そうくん。お待たせしました」

ちょっと屈んでそう言えば、先生に隠れるようにして不安気に俺を見ていたそうくんが、ぱっと飛び込んできた。

「そーすけ!」
「さみしかった? ごめんね、おうち帰ろっか」

そのままよいしょと抱き上げて、先生に頭を下げる。また明日ねと応えてくれる先生に、そうくんは小さくばいばいと手を振った。ぷくぷくとした掌は、小さすぎておもちゃみたいだ。

「たしかにすげぇ懐き様」

いつの間に飼い慣らしたんだよと茶々を入れた孝信が、そうくんのほっぺをつつこうとする。途端、そうくんはいやいやをして俺の胸元に顔をうずめた。
まぁ触り心地いいし、触りたくなる気持ちは分かるけどね。

「なんでだろ。ごはんじゃない? ほら、俺の作るごはん、美味いし」
「隼人くんと同じ匂い、感じてんのかな」
「――どうなんだろね、俺には分かんないけど。だってそうくんの父親してる兄貴、俺、見てないもん」

瞬間、俺の胸に生じたのはどうにもならない虚無感だった。
そーすけの世界は狭いよ。俺はいやだな、そんなの。そう言って伏せ目がちに微笑む兄貴の顔が脳裏をよぎった。優しく曖昧に俺を甘やかして、最後は俺を簡単に捨てた兄貴。
その後の兄貴の姿なんて、俺は知らないよ。
孝信が何か言おうとしたのが分かって、俺は足を速めた。聞きたくない、何も。

そんな俺の機微が伝わってしまったのか、腕の中のそうくんが「そーすけ?」と不思議そうに俺を見上げた。細い目に俺の顔が映りこんでいる。なんだか不思議なくらい、目がきれいだ。
子どものころは、目がとても白くきれいだと言うけれど、本当なのかもしれないなと柔らかく苦笑する。

「ごめんね、そうくんに怒ってるわけじゃないからね」
「タカノブ?」
「うん、そこのおっさん。帰ったら叩いていいからね」
「ちょ、お前、おっさんはねぇだろ。っつうか俺がおっさんだったら同い年のお前もおっさん……って、そうくん痛いって、痛い!」

俺の腕の中から短い手を精いっぱい伸ばして孝信に愛の鉄拳を加えているそうくんに、「よしもっとやれ」と発破をかける。「勘弁してよ」と情けない孝信の声が聞こえてきて、俺はちょっと溜飲を下げた。

「あー、もうほんとこいつ隼人くんの子どもだよ。隼人くんも俺が宗佑苛めてたら、あとからねっちりした嫌がらせしてきたもん」
「……兄貴が?」

そうくんに、ぱしぱしやられた腕を擦りながら不貞腐れている孝信の台詞が意外すぎて、俺は思わず聞き返してしまっていた。
――あの人畜無害な兄貴が嫌がらせ? たぶんそんな思いが顔に出ていたのだろう。これだよと孝信が呆れた顔をする。

「隼人くん基本的に優しいんだけどさぁ、宗佑のことに関しちゃ結構性格悪かったって。3つも年上だったくせに大人げねぇって俺何回思ったことか。まぁ宗佑も宗佑で隼人くんにべったりだったしなんだかなぁだったけどさ」
「へぇ……」
「そうくんも宗佑、好きそうだもんなぁ?」

さっきの仕返しみたいに、わざわざそうくんの顔を覗き込んで言った孝信に、そうくんはかすかにむっとした顔をした。

「……そーすけは、俺の」

ぎゅうっと皺になりそうなくらい上着を掴みながら、そうくんが放った爆弾に、孝信はこれでもかっていうくらいの大爆笑をしてくれたのだけれども。

俺はと言えば、可愛いじゃないかとほほえましく思ったのだけれど。その同じ心で、ほんの少し、けれど確かに、胸が痛んだ。


お付き合いくださりありがとうございました!