http://yzkak.namidaame.com/ [Honey**]


愛を乞う人《後》


「悪い、孝信」
「や、別に、俺はいいんだけどさぁ。そうくん、大丈夫かね」

寝起きの頭でぽりぽりやってる孝信に、俺は拝むように手を合わせる。

「しょうがないんだって。ただでさえ日曜で人手足りてねぇのに、1人インフルで倒れたらしくてさ」

「秋吉くんも大変なのに悪いんだけどね」と申し訳なさそうに電話をくれたオーナーに、俺は「大丈夫ですよ」と快諾してしまっていた。ただでさえ最近はシフトの関係でも迷惑をかけていると言う負い目もあったので。

そんなわけで、俺は日曜日の早朝、まだすやすやと寝息を立てていたそうくんの隣からそっと抜け出して、起こさないよう慎重に支度を終えて、隣の孝信の家のドアを叩いたのだった。

「そうくんまだ寝てるし、俺の部屋に居てやってくれたらそれでいいからさ。たぶん俺がいなくても大丈夫だと思うよ、おまえの日曜つぶして悪いけど」

「だから悪い、頼んだ」と足早に言い切った俺に、孝信は小さく息を吐いた。文句はあるけど、言ってもどうにもならないって諦めた顔だ。

「……今度、また俺にもちゃんと飯作れよ」
「うん。悪い、助かった!」

ぱちん、ともう一度手を合わせて、俺は古い階段を二段飛ばしで駆け下りて、三好に向かう。
転ぶなよ、と孝信の声が追ってきたが、俺は軽く手を振っただけで振り返らなかった。

人って、階段から落ちたくらいで、死ねちゃうんだなぁ。
死に装束を着た兄貴の顔が脳裏に浮かんだ。整えてもらっていたから、目立たなかったけれど、こめかみのあたりがそれでも薄っすら青かった。
あぁ本気で顔面から落ちたのか。当たり所がもうちょっと違ったら、生きてたのかなぁ、とか。

そんなことを考えたのは久しぶりだった。自分でも不思議なほど、俺はけろりとしている。たぶん、――それは、そうくんがいるからなんだろう。

そうくんのお世話という大義名分で、俺はかなり救われている。


**


「ただいま」

本当は、もう少し早く帰れればと思っていたのだけれど。夢見荘に戻ってきたのは日付を丁度跨いだ時間になってしまっていた。
孝信にもそうくんにも悪いことしたなぁとは思ったけれど、まぁでもそうくんは大丈夫か、と思い直す。
俺はあの子どもが泣いたところを一度も見たことがない。

もうそうくんは寝ているだろうな、と静かにドアを開けると、律儀に俺の家で待っていてくれたらしい孝信の姿が視界に入り込んできた。
電気を絞っている薄暗い部屋に、足元に気を付けながら入り込む。
「お帰り」とどことなく不機嫌そうな声で出迎えてくれた孝信に、俺は弁解するように眦を下げた。

「悪かったって。忙しくて抜けらんなかったの」
「そりゃ、しょうがねぇのは分かってるって。でも、そうくん、朝起きてお前いなくてちょっと泣いてたぞ」
「……マジで?」

あの、そうくんが。目を瞬かせて、律義に布団の端っこで眠ってるそうくんを見る。そうくん用の布団も買わないといけないなぁと思ってはいたのだけれど、一月近く経った今も、俺とそうくんは一つの布団で一緒に眠っている。
俺と同じようにそうくんを見つめながら、「マジで」と孝信が呆れた声を出した。

「隼人くんはこの子にとったら父親だろ。急に父親がいなくなって、不安になってるだろうっての、もうちょいお前が感じてやれよ」
「分かってるよ」

反射の様に言い返した俺に、孝信は苛立ちを吐き出すように指先で畳を弾いた。

「分かってねぇよ、おまえ。全然」

なんでそんなこと孝信に言われなきゃならないんだ。俺だって頑張ってるっての。いきなり5歳児の父親になっちゃったけど、頑張って育っていかなきゃってそう思ってるよ。
そう言い募った俺に、孝信は「あのな」と眉をしかめた。

「そうじゃねぇだろ。そこじゃねぇよ、俺が言ってんのは」
「じゃあなんだよ」

苛々とするのは、きっと疲れているからだ。あぁなんでこんなに聞きたくないんだろう。低い俺の声音なんて一切気にしないで、孝信は言った。

「なんでそうくんは泣かないんだろうな、じゃねぇだろ。なんでお前そんな、ふわふわしてんだよ。なぁ、おまえ、分かってないだろ」
「だから、なにをだよっ」

声を荒げてしまって、俺ははっとそうくんを見た。けれど、その小さな身体は規則正しい寝息を繰り返していて安堵する。
起こしたら悪いもんな、とそうくんを見つめていたら勝手に口元に笑みが浮かんだ。そんな俺の横顔から、なぜか孝信は苦しそうに視線を落とした。

「なぁ、宗佑。俺だってこんなこと言いたくねぇけど。でも、おまえ」

孝信が言いにくそうに息を呑んだ。聞きたくない、と俺の中の何かが確かに警鐘を鳴らしている。聞きたくない。

「宗佑、隼人くんが死んだって、――ちゃんと分かってる?」

分かってるよ、と言うはずだった声は、何故か出なかった。喉がカラカラと乾いている。

「なぁ、本当に分かってるか? もう会えないんだよ、いないんだよ、隼人くん」
「……」
「もう声も聞けないし、触れないし、俺が宗佑になんかしたって、庇いにも出てこないんだよ、隼人くん。なぁ、宗佑、お前、本当に分かってる?」

――分かっていた、はずだった。

そのはずなのに、たまらなく身体が芯から冷えていくようだった。
もう会えない。あの笑顔は見れない。
これは喧嘩別れしたあのときとは違うんだって。ちゃんと分ってる。だって俺は兄貴が骨になったのもちゃんと見届けて――。


「そーすけ?」

もぞりと音がして、布団の中から、舌足らずなそうくんの声がした。そーすけと俺を呼ぶ響きは、なんでだろう。兄貴と全く一緒なんだ。

……だから、俺は。

葬儀の夜、俺を「そーすけ」と呼んで、俺しか知らないみたいな瞳で俺に縋りついてきたそうくんを育てようと思った。
俺の隣に置こうと思った。
そうくんを、まるで――兄貴の代わりみたいに。

その思考が浮かんだ瞬間、吐きそうになって俺は咄嗟に口元を手で押さえた。実際に嘔吐はしなかったけれど、胃酸の酸っぱい感じは喉元までせり上がってきていた。

「宗佑、大丈夫か?」

問いかけてくる孝信に何も返せず、俺はがたんと派手な音を立てて、よろめくように立ち上がった。暗闇の中で、そうくんが俺を見ている。あの、兄貴に似た瞳で。
無理だ。
何が無理なのかもわからないまま、俺は家を飛び出してしまっていた。宗佑、と俺を呼ぶ孝信の声が聞えたけれど止まれなかった。

――俺は一体、何がしたいんだ。

俺にとって、3つ年上の兄貴は、世界のすべてだった。好きだと思うそれが兄弟間の情を超え、すべてを得たいと思うようになったのも俺の中では当然だったのに。
兄貴はそれをおかしいと、俺にそう言って。
兄貴は一度も、俺を受け入れてはくれなかった。

だから、俺はその代わりに、そうくんをしたかったんだろうか。
そんなわけがないと、そう思いたい心は勝手に裏切られていく気がした。

でも、帰らないわけにはいかない。今のそうくんには俺しかいないんだ。それは義務というよりかは、甘美な響きの方が強くて、俺はそんな自分に心底嫌気がさした。


そっと家のノブを回した俺に、孝信が何か言うより先にそうくんが飛びついてきた。その身体を抱き寄せながら、孝信を見る。
どこか悲しそうに俺とそうくんとを見て、ゆっくりと唇が動いた。声にならない声で「馬鹿」と言われたのが分かって、俺は小さく笑った。

「そーすけがどっか行っちゃったかと思った。そーすけも俺を捨てたのかと思った」

そう言ってわんわん泣くそうくんに、馬鹿みたいに俺も胸が締まった。ぎゅっと抱きしめた小さい身体は簡単に壊れてしまいそうだった。

「……馬鹿だね、そうくん。俺がそうくんを捨てるわけないじゃない」

捨てるとしたら、それは俺じゃない。君だ。
君の父親が俺を捨てたように、いつか君も大切な人を見つけて、ここからいなくなる。
君の世界は今は俺だけかもしれないけど、すぐにそうでなくなってしまう。

「ほんとに? ほんとに、そーすけ、いなくならない?」
「ならないよ。そうくんが俺をいらないって言うまでは」

君が、俺を必要としてくれる間は。そうならなくなるまで、あとどのくらいの時間が残されているかは、分からないけれど。

泣き笑いの顔でそうくんが言う。じゃあずっとだね。ずっとそーすけは俺のそばにいてくれるんだ。無心にひたすらに、どこまでも疑いひとつなく。

「――そうくんがそう言ってくれるうちは大丈夫、俺はここにいるよ」

このままずっと、小さなそうくんの心を俺でいっぱいにして、べたべたに依存させて甘やかせて。そうすれば、そうくんの世界はこのまま俺だけで閉じてくれるのだろうかと、馬鹿みたいなことを夢想して、俺は小さく笑った。

そんなことあるわけはないと、知っていた。


「そーすけの世界は馬鹿みたいにちっちゃいよ」

心底困った顔で、兄貴が言う。そんなの分かってるよ。でもそれが駄目だなんて俺は思わない。俺は兄貴がいればそれでいいんだって。
兄貴がそう言うたびに、俺は何度だってそう言い返した。だからずっとこの話は平行線のままだった。

「このままじゃそうーすけが駄目になる。俺は俺のせいで駄目になるそーすけを見たくないよ」

駄目ってなんだよ。なんでそんなことをお前が勝手に決まるんだ。その日、兄貴は一度も俺の眼を見なかった。

「そーすけ。俺、結婚する。この家も出る。もうね、俺の子どももその人のおなかの中にいるんだ」

なんだよそれ。そんなの俺は認めない! 絶対に認めない! 喚く俺に目もくれず、兄貴は出て行く。なんだよそれ、俺のこといらなくなったんならそう言えよ。邪魔だったんならそう言えよ。

そんな偽善ばかりを並べて、自分を正当化して。最悪だ。じゃあ、お前にとっての俺って何だったんだ。

その答えを結局聞くことは、俺はできなかった。



「大丈夫だから、ね、そうくん」

あやすように言いながら、俺はこの子をどうしたいんだろうなと考えていた。大切にしたい気持ちで、このまま時を重ねていって。俺はそれで、どうなりたいんだろう。
撫ぜた髪の毛も、腕の中に感じる温もりも、それはそうくんだと俺に訴えているのに、この子の父親である兄貴を思い出させてしょうがなかった。

――それでも、もう少しだけ。
兄貴の面影をそうくんの中に見ることを許してほしいと願う。
いつかはそうくんは、そうくんとして巣立っていくのだから、せめてその前のほんの少しの期間だけでいいから、俺の勝手な追憶に捧げさせてほしかった。


泣き疲れたそうくんが眠りに落ちた後、孝信がぽつりと呟いた。
そうくんに隼人くんを見すぎるのは、宗佑にもそうくんにも良くないと思う。そうだよなと俺も頷いた。でもじゃあどうしたらいいんだろう。

「俺は、結構宗佑のことずっと好きだったんだけどな」
「……え?」
「でも宗佑はずっと、隼人くんばっかだっただろ。いつか隼人くんから奪ってやろうと思ってたのに、隼人くんのもののままで隼人くんいなくなっちゃうし」

ははっと小さく笑った孝信に、俺は曖昧に笑うしかできなかった。俺はきっとずっと兄貴のものだ。兄貴は結局一度も俺のものにはならなかったけれど。

「じゃ、俺も明日仕事あるから部屋戻るわ、またな」

ぽんっとそうくんにするみたいに俺の頭を撫でて、孝信の背の高い後姿が消えていく。

そうくんは、そうくんだけど。そうくんは、兄貴の遺伝子を受け継いでるんだよな。記憶を継いでいるわけじゃないけど、その身体の半分は兄貴でできているんだと思うと、愛しさが増す気がした。
そうくんが眠ってる布団に俺も入って、小さな身体を抱きしめた。

昔――眠れない夜、こうやって兄貴の布団にもぐりこんだ俺を、兄貴の体温が包んでくれたことを思い出した。
それとは違うと分かっているのに、抱き込んだ先から伝わってくるぬくもりに、涙があふれてきて仕方がなかった。


――なんで兄貴、宗太なんて名前、自分の息子に付けてんだよ。

俺の名前だって、離れても俺のこと覚えてたのかなんて、そんな都合の良い錯覚をしたくなるじゃないか。
なぁ、なんで死んだんだよ。会いに行こうと思えばきっと会いに行けたはずだった。兄貴だって会いに来ようと思えば、何時だって来れたはずだった。

それさえも、もう遅すぎるけど。

今確かにある腕の中のぬくもりを、その代わりとは言えないけれど、守っていってやらないといけない。少なくとも、そうくんが俺を必要としている限りは。この子が子どもでいるうちは。

夢の中で、そうくんがそーすけと俺の名前を呟くのが分かった。馬鹿だなと思うのと愛おしいと思うのが、ほぼ同じで。

ただぎゅっと腕の中の幼い身体を抱きしめた。その中で、安心したようにそうくんから力が抜けた気がした。


【END】

お付き合いくださりありがとうございました!