http://yzkak.namidaame.com/ [Honey**]


花の刻印-Next Prologue-


【花の刻印-Next Prologue-】


滝川行平と言う男は、頑固なくせして変なところで流されやすい、お人好しだと神野は思う。

情が厚いと褒めればいいのか、馬鹿だと嘆けばいいのか微妙なラインだとも思うが、そこに付けこんでいる自分が言えた台詞ではないので、それは黙っておこうと決めている。


その情に付けこんで、行平との関係をほんの少し進展させてから、そろそろ一月が経とうとしている。
暦の上では3月も半ばを過ぎたが、まだ世間は肌寒いようだ。

神野は、行平から「自由に出入りしていいから」とお墨付きのように貰った鍵を手の中で弄びながら、本当人が良いよなぁ、と苦笑する。
今までだって、神野は行平が居ようが居まいが好き勝手にこの事務所に出入りしていた。それを認めるようなことを言うのだから性質が悪い。
甘やかされているような気がしてしまって落ち着かない。


そのお人好しはと言えば、珍しく泊りがけでの仕事に出かけている。
今日あたり帰ってくるだろうと踏んで、事務所まで来てしまったはいいが、居ることを許されてしまうと逆に何をしていいか分からなくなるのだから、我ながら面倒な性格をしていると思う。

「俺がここでご飯作っておかえりーとか言ったら、あの人すごい面白い顔するだろうけど」

それはそれで見てみたい気がしなくもないが、うっかり喜ばれたりしたらたまらなくなるのは、自分だ。
ふと外に人の気配を感じて、神野は表情を消す。すっかり弄ぶのが癖になってしまっていた鍵をジーンズのポケットに落とし込んだのと同時に、ドアが開いた。

「おかえり、滝川サン」

定位置と化してしまったソファから視線だけを持ち上げて応じた神野に、行平は微かに困惑した顔を垣間見せて、それから不器用な笑みを張り付ける。

「なに、その微妙な顔。かわいい恋人が待っててあげたってのに良い反応してくれるね」

軽口を叩いた神野に、行平は本気でげんなりと頭を掻く。

「やめてくれ、その表現。まだなんか気色悪いんだよ」
「その言い草の方がひどいと思うんだけど」
「いや、……うん、その、」

ばつの悪い顔で狼狽えだした行平に、神野は冗談だと告げるように笑う。その先を聞きたくはない。謝られたくもないし、やっぱり無理だと退けられたくもない。
行平はと言えば、ほっとしたように息を吐いて、「ただいま」とようやく口にした。

「おかえり。今回は思ったより早かったね。どんくさいことしなかったんだ?」
「してねぇよ。っつか、あれだな」
「なに?」

以前だったらまず間違いなく自分には向けなかっただろう柔らかい笑みを精悍な顔に刻んで、行平がコートを脱ぐ。

「誰かに迎えてもらうのもいいもんだな」

自分を見下ろしてくるその瞳に灯っているのは慈愛は、行平自身の過去に向けられているのかもしれない。

「一人が長かったから。ありがたみを実感する」
「彼女とかいなかったみたいだもんねぇ、滝川サン」
「まぁな」

必要だって思わなかっただけだけど、と行平が続けたそれが負け惜しみでもなんでもないことを神野は知っている。
大切な人間を持つことを恐れている節が行平にはある。それは彼が妹を失ったことに基端していて、だから自分はちょうどいいのだ、きっと。

「ただいま」

まるで甘えるみたいに繰り返して、ソファの背もたれに行平が肘を置く。そしてその無骨な指先が壊れ物に触れるかのように頬のラインをなぞる。
その動きに、あれは失策だったと悔やんでしまう。あの夜、行平が神野の何を視たのかは言わなかったけれど、いくらでも見当はついた。

本当にお人好しだ。
いつだって相手の感情に寄り添おうとするのは、視えるからなのかもしれないが、行平自身が持って生まれた性なんだろう。
のけぞる様に首を逸らせて、眼を笑ませると、行平が眉を下げた。

「なぁ」
「だからなにって」
「触ってていいか」

だから、そんな優しいような声を出さないでほしい。

「もう触ってるじゃない」

ふざけた調子で返すのは、間違いなく自己防衛で、神野が生まれた瞬間から身に付けざるを得なかった防衛本能だ。

「じゃあキスしていいか」
「……恋人って響き、気持ち悪いんじゃなかったっけ?」

尖らしてみせた唇に、行平のそれが重なる。啄むだけだった口づけが徐々に深くなっていく。
行平の手があやすように、神野の髪を梳く。その温かみが、本当にたまらなくなる。
幸せは、恐ろしい。
そしてそれが、砂上のものだと自覚しているから、尚更。
行平の視線が、彼の自室へと続くドアにちらりと向いたのを視認して、神野は余裕を含んだ笑みをつくる。

「なぁ、神野」

行平の手が首筋に触れる。触れたところから、じんわりとしたなにかが染み込んでくる気がすのは、きっと気のせいじゃない。

「気色悪いっつったのは、その、甘ったるい表現が慣れないだけで」
「なに、気にした?」
「違う。……いや、それもあるけど。変に言葉足らずで誤解させたくないんだ、おまえに」
「滝川サンて、ホント」

神妙な顔つきで見下ろしてくる男に感じるのは、「愛おしい」と言う熱ばかりだ。

「ホント、なんだよ。どうせお人好しだ馬鹿だなんだって言いたいんだろ」
「違わないでしょ」

からかうように言ったそれに、「違う」と若干憮然とした返事があった。

「大事にしたいんだ、おまえのこと」

吐息が落ちるような、あまやかな声に、神野の背がじわりと震えた。誤魔化すように笑う。

「言う相手違うんじゃない?」

なのに行平は真面目な顔で「おまえだからだよ」と言ってみせる。やめてほしいと思う。本当にそう思う。
駄目押しのように行平の腕が神野の身体を閉じ込める。その温もりに、どうしようもなく胸が詰まった。

恋と言うよりも、自分のこれはもう妄執の域なのではないかと神野は思ってもいる。
初めて会ったあのとき、自分に縋りついてきたと言うだけで、必要にされていると感じた。
あの暖かな感覚が忘れられなくて、追いかけ続けている。馬鹿だ。
そしてその馬鹿の勢いに呑まれて、こんな関係を持っているお人好しも、どうしようもない馬鹿だ。

行平に手を伸ばされると、その手に触れられると、涙が出そうになる。
と言っても、一度も神野は泣いたことがないので、本当に出るのかどうかは知らない。
でも、鼻の奥が熱くて、胸が締め付けられるように苦しい。この感覚を「泣きそうだ」と表現しても間違ってはいないのではないかと思っている。




「そういや、おまえ、最近あれ着てないな」

黒地のVネックのカットソーに頭から被った瞬間、まじまじとこちらを見ていた行平が口を開いた。

「あれって?」
「あれってあれだよ。ほらなんつうの? 着物? 和装?」
「どっちも意味一緒だと思うけど」

なに、そっちの方が好みだった? と軽口を返して、神野はベッドから立ち上がる。あまり長いことこの空間にいると、自分が保てなくなるような、そんな不安があった。

「そう言うんでもないけど、前はあの恰好ばっかだったろ、おまえ」
「まぁそうかもね」
「あれってなんでだった? 呪殺屋の雰囲気つくりとかは言うなよ」
「そう言うわけじゃないけど」

幼い行平と初めて会ったとき、自分は和装だった。
気が付くわけがないと分かっていながらも、同じような雰囲気を漂わせていれば、あるいはと考えていなかったと言えば、嘘になる。

「まぁでも、カッコはつくでしょ。その辺の格好の兄ちゃんが呪殺屋ってのより、法衣姿の呪殺屋って方が、怪しげで」
「……おまえ、今もやってんのか、それ」

一段トーンの下がった行平の声に、神野は曖昧に笑む。

「さぁて、ね。滝川サンはどう思う?」

試すようにじっとその意志の強い瞳を見つめ返すと、行平は諦めたように息を吐く。

「おまえ、なんで呪殺屋なんてしてたんだよ」

あ、過去形なんだ。
おかしく思いながら、神野はもう一度「さぁね、なんでだろうね」とお茶を濁す。
言ってもきっと、行平は分からない。分かられたいとも、思っていないけれど。

「その脇腹の刺青も、秘密か」

それが何を指しているのかだなんて、考えるまでもなかった。
気が付かれないわけがないとも、分かっていた。なのに、笑みを浮かべて見せるのに、ほんの少し時間がかかってしまったことに、神野は自身に舌打ちしたい気分だった。

「なぁに、妬いてんの?」
「そうじゃないだろ」

憮然とした声に、神野はだろうねと内心頷いていた。これは誰がどう見ても、そう言った甘いものじゃない。

「滝川サンが気にするようなことじゃないよ」

刺青と行平は言ったが、そうじゃない。これは刻印だ。

「昔、俺が掛けられたただの呪い」

嘘じゃない。行平がどう取るかは知らないけれど。
嫣然と微笑んだ神野に、行平は痛ましげな顔をして、手を伸ばしてきた。
離れようと思ったのに、できない。抱き込められた腕の中で、自分とは違うリズムの心音が甘く響く。
「神野」と行平の低い声が呼ぶ。

それが本当の名前だったら良かったのに、と密かに祈った。
いつまでこうしていられるのだろう、と思えば思うほど、刻限は近づいてきているように思えてしまう。


――さんが、俺から逃げられるはずがないんだ


闇の中、聞こえてくる声はいつだってひとつだった。
あの声が耳の中で木霊している。

触れたそばから身体に注ぎ込まれてくる行平の心音と、温もりだけがそれを忘れさせてくれるような気がした。

お付き合いくださりありがとうございました。次章への導入部分になります。また亀更新かと思いますがお付き合い頂ければ嬉しいです。