【20】
「よくよく考えてみると、滝川サンに招待されたのって、初めて会った時以来かもしれないね」
行平の間借りしている事務所の応接室を兼ねているソファにゆったりと腰を下ろして、神野が首を傾げた。
嫌味か、と思わなくもなかったが、事実だ。行平が呼ばなくてもふらりふらりと気ままに現れていたのが、この男で。
思えばあのころから絆されていたのか、行平がその往来を拒絶したことはなかったと思うのだけれども。
「こうやってお茶淹れてもらうのも新鮮でいいなぁ。あ、でもこれ出がらしとか言わないよね。俺、薄いのあんま好きじゃないんだけど」
「変えたばっかだよ。っつか、……」
おまえなぁ、と言い掛けて、が、じゃあどうしたいんだ、と行平は頭を抱えたまま呑気にお茶を飲んでいる神野の正面に座り込んだ。
「なに? なにが不満? もっと深刻な顔してほしかった?」
「そう言うわけじゃ、ねぇけど」
「ところで、滝川サンは今更俺に何を聞きたいの」
空気が緩みかけたところで、急速に矛を変えられるのは心臓に悪いと実感する。
顔を上げると、神野はにこっと、何の邪気もなさそうに笑んで見せる。
「俺を拾ってくれた時ですら、なんも聞かなかったくせに」
「あのときとは、状況が俺にとっては違うんだよ。あのときは……、成行きだったけど、今は聞きたいんだよ」
「それって、なんで?」
試すように神野は微笑う。いつだって、そうだ。それが神野の姿勢であると言うよりかは、いつだって逃げる隙を残しているようにも思えるのだ。
「気になってしょうがないからだ、って言ったら、答えてくれるのか、おまえは」
瞬間、神野の表情が微かに動きを止めた気がした。
ここまで来て、逃がすつもりもなぁなぁに流すつもりも、行平にはなかった。どちらかと言わなくとも、行平は白黒をはっきりと点けたい性分だし、そこもきっと神野とは大きくかけ離れている。
いつも、言い逃げをするのも、神野の癖だ。
「……俺、あんたのそういうところ、好きだけど好きじゃないな」
「なんだそれ」
軽く眉根を寄せた行平に、小さく息を吐いて神野が零した。
「嫌だ。持って行かれそうになる」
もう一度嘆息して、神野が深くソファに身をうずめる。なんだか子どもみたいだ。
「おまえ、神埜だって言っただろ。それで俺が忘れてるって言っただろ。なぁ、俺、おまえと会ったことあるんだよな?」
「……」
「俺に会いたかったって言ってたのも、嘘じゃないんだろ?」
ぴくり、と神野の手が揺れた。
「おまえ、昔、髪、長かっただろ?」
流れるようなつややかな漆黒。柔らかな笑みと掛けられた穏やかな言葉は祈りだった。あの時の行平にとって。
「忘れてると、思ってたんだ」
神野は俯いたまま、吐息のような笑みをこぼした。
「あんたは忘れてると思ってたのに、なのに中途半端に覚えてるから、だから嫌になる」
「……ごめんな」
「俺が勝手に思ってただけなんだ。うん、自分でも馬鹿だって思ってるから、笑っていいよ。あんたは本当に小さいガキだったから、いやあんたからしたら大したことじゃなかったから、覚えてないと思うけど。あんた、初めて俺に会ったとき、俺に向かって手ぇ振ってきた」
それは、おそらく行平が初めて神埜の家に祖父に連れられて行った日のことなんだろう。
確かあの家には、子どもは行平以外には来ていなくて。つまらなくて行儀が悪いと思いつつ、きょろきょろと屋敷を彷徨っていた。
神埜の家には、時代の当主だと大事にされていた赤ん坊しかいなくて、当時10歳だった行平の遊び相手にはなりえそうにはなかった。
そのとき、屋敷の離れのようなところで、自分より少し年かさの少女を見かけて、興味を確かに引かれた。
けれど確か、神埜の家の人に見咎められて、遊べなかったような気がする。
名残惜しく手を振ったのは、行平を見つめていた少女の瞳がひどく寂しそうに思えたからだった。
「俺、あんたをずっと待ってたんだ。本当、馬鹿だって思うんだけど、でも」
行平が件の少女に会ったのは二回だけだ。一度目は手を振っただけだった。
二度目は、妹が居なくなって半狂乱に陥って、彼女ならもしかしたら、と勝手な期待で縋りに行っただけだった。
「あんたが、妹を探してほしくてたまたま俺を頼っただけだってのも分かってたんだ。俺に会いに来たわけじゃないってのも、ちゃんと知ってた」
普段、よく人を射る神野の視線は足元に落ちたままだった。
「でも、それでも、俺は待ってたんだ」
全部俺の勝手なんだよ、と自嘲するように神野が呟いた。
「初めて必要とされた気がしたんだ」
その声が、行平の耳には震えて聞えた。至って平坦な声を神野はきっと出していた。でも、行平には違って響く。
気が付いたときには、テーブル越しに腕が伸びていた。そしてそのまま乗り越えるようにして、神野の冷えた身体抱き込んでいた。
「なに」
行平を押しのけようともしない代わりに、神野は力を抜こうともしなかった。
強いて言うなら、ただの衝動だ。
たまらなかったのは、行平自身だ。
触れたいと思う。その不安定さを支えてやりたいようにも思う。それがどれだけ傲慢だとしても。
「俺は」
あれから、神野に会えば何を言おう、どうしようと考えていたはずなのに、そのすべてが無意味だった。
何を言えばいいのか分からなくなる。絞り出した声は、ひどく固いものになってしまっていた。
「おまえがどこかに行ったら、困る」
「……そう」
「いなくなったら、嫌なんだ」
「それって同情? それとも、俺にまさか罪悪感でも感じた?」
「違う」と低く行平は言い切った。
でも、好きだとか大切だとか、そんな甘い言葉は吐き出せそうになかった。
本当にそう思っているのかどうかも分からない。ただ、たまらなく気になる。
傍にいないとどこかに消えてしまうのではないかと不安になる。
いつだって完璧に強がってみせるそれを打ち破って、抱きしめてやりたいと思うし、傍にいてほしいとも思う。
この感情は、甚だ発展途上なもので、でも、それでも、と思うのだ。
「馬鹿だ」
と、何も言わない行平に呆れたように神野が言って、身体から力を抜いた。
「取って食われても知らないよ」
望むところだ、と言う代わりに、まるで挑むように神野を見つめ返した。
どこか泣きそうに揺れる瞳は、やはり黄金色に光って見えて、ひどく蠱惑的だった。
「おまえの眼、きんいろだよな」
子どもが太陽の色は黄色だと言うように口にした行平に、神野は微笑を唇に刻む。
「俺は、正確にはあんたと同じ人間じゃないからね」
「でも、きれいだ」
言った直後、これじゃ口説いてるみたいだったと、はたと青くなった行平に、神野は眼を瞬かせて、それから自然な笑みを見せた。
「あんたのそう言うところ、俺、嫌いじゃないよ」
馬鹿みたいなお人好しで、公平なところ。
いつか聞いた台詞だと思った。同時にこいつはなんでだかは知らないけれど、俺のことを過大評価してるなぁとも思った。
馬鹿なお人好しは、自分よりも目の前の男なんじゃないかと、行平は疑い始めている。
これにて「花の名前」完結です。お付き合いくださり本当にありがとうございました!