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花の名前 ―滝川万探偵事務所始末記 序―《19》


【19】


「なぁにがそれなりに楽しかったよ、だ。それで終わりみたいな顔しやがって」

ぶつくさ零す行平に、小早川は快活に笑った。

「なんだおまえさんも、あいつの美貌にやられちまったクチか? やめとけ、やめとけ。あいつは癖がありすぎる」

行平が持ってきた書類に目を通しながらも、その口元はどこか愉しげだ。御年、40。この齢にして、行平がいる街を自らの庭と称してみせる元締めだ。
小早川の後ろ盾なしには、行平も今の自分の稼業は成し得なかったと思っているので、感謝している。
もちろん、自暴自棄だった自分を気にかけて、この道へ進ませてくれたことにも、だが。

「癖はあるけど、悪人じゃないですよ、あいつはあれでも」
「それがやられてるっつうんだよ。何人呪い殺したかしれない呪殺屋が悪人じゃないってか」
「……あの代議士のドラ息子に関しては、全面的にあっちが悪いと思いますが」
「おいおいおい、どうしたよ、おまえ。悪人に対してだったら何してもいいって、おまえそんなこと言うやつだったかぁ?」

からかう調子のくせして、目だけは行平をじっとりと値踏みしているのが分かる。行平は、小早川の正面に立ったまま、所在無く髪の毛を掻きまわした。

「誰彼かまわず襲ってるわけじゃありませんし、あいつなりの正義はあると、俺は思います」
「そう言うやつの方が厄介だと思うけどな、違うか?」

鋭い視線に挑み返すように行平は口元に笑みを浮かべて見せた。

「俺が責任を持ちます」

自分が全般的に正しいだなんて、思えるはずもない。それと同じくして、神野が全般的に正しいと言うこともきっとない。
だけれど、お互い文句を言い合いながらでもまっすぐに見ていれば、そこまで変な方向に突き進むことはないだろうと行平は思う。

「それがおまえの結論か」

やれやれ、とでも言いたげに眉を下げた小早川が、書類から手を離す。

「厄介なもんに惚れたな、おまえ」

何とも言い返せないまま、曖昧な笑みを張り付けた行平に、「気を付けろよ」と小早川がさらりと告げる。

「あいつ、何かに追われてるらしい」

小早川の低い声に促されるように行平の脳裏に浮かんだのは、初めて神野と出会った冬の夜の光景だった。
霧雨の中、倒れていた神野を拾ったのは、行平だ。
ときたま、神野が汚れた格好で行平の前に現れるのは、いつも雨の夜だった。

「ありがとうございます、でも」

あえてなんでもないことの様な顔をして、行平は笑った。

「俺も、あいつ追いかけてる最中なんです」



元が気まぐれな猫の様な男ではあったが、神野はあの日、路上で別れて以来、神野は行平の元に現れていない。

今までなんだかんだと週に一度は必ずふらりと行平の元にやってきていたから、行平自身は積極的に神野に会おうとしたことはなかった。
住んでいる場所も、ふだんどんなところに出没しているのかも知らないと言う事実はうすうす気が付いていたから、探すのは難しいだろうと分かってはいたのだけれど。

「にしても、本当、あいつはどこで生活してんだ」

生活感の薄い男ではあるが、まさか家がないと言うことはないだろう。
ここ数日、立て込んだ仕事がないのを良いことに、行平は神野を探していた。
なのにこうも見つからないと、避けられていると言うか隠れられている気がしてしょうがない。

隠せない溜息を零して、自宅兼事務所に戻ろうと、角を曲がったときだった。
間借りしているビルディングを見上げている黒いシルエットが視界の端に止まる。

「神野!」

叫んだ瞬間、影が振り返った。ほんの少し、驚いたように目を瞠った神野と視線が確かにあった。
走り出そうとしたのか、シルエットに一瞬力が入って、けれど行平が走りよると、彼は待ち構えるようにこちらに向き変る。
そして何事もなかったかのように、作りものめいた笑みを浮かべるのだ。

「久しぶり、って言えばいいのかな。そんなに慌ててどうしたの、滝川サン」
「……おまえが逃げるからだろ」
「逃げてなんてないでしょ、失礼なことばっかいう人だなぁ。それか被害妄想だよ、それ」

行平は、今にもひらりと身をひるがえしそうな神野の腕を取った。
珍しく洋装だったけれど、相も変わらず薄着だ。それがおしゃれなのか行平には分からないが、もっと分厚いコートを着ろと見るたびに思ってしまう。

「逃げてるだろ、おまえは」

責めるような口調になってしまったそれに、見下ろした先で神野が不満そうに眉をひそめた。
けれど神野が何か言うより早く、行平は訴えるように繰り返した。

「頼むから」

それはあの山中で言った言葉と似ていたかもしれない。まるで祈るような響きになるのが行平自身不思議でしょうがなかった。

「逃げないでくれ」

神野の眼がじっと行平を見上げていた。そして、ふっと和む。

「どうしちゃったの、滝川さん」

その言い方が、なぜかひどく優しく響いて、行平は柄にもなく泣きそうになってしまった。

「なんか悪いものにあてられたみたい」

充てられたとしたら、それは間違いなくおまえに、だ。
掴んだ先から温もりがじわりと染みわたってくる気がした。

こんな風に思えたのは、本当に久しぶりだったなのだと、今になって気が付いた。


お人好しだと、神野は言うがどうなのだろうと行平は疑問に思ってもいた。
人が良い、と言うのとは違う気がする。
自分はいつも、自分がしたいようにしているだけなのだ、きっと。

お付き合いくださりありがとうございました!