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花の名前 ―滝川万探偵事務所始末記 序―《18》


【18】


おそらくいなくなった日に隼人少年が来ていたものだったのだろう芥子色のトレーナーに包まれた骨を渡された佐和子は、泣き崩れるかと思ったが、気丈にも唇を噛んで悲しみをこらえていた。
そしてまるで息子を抱くようにぎゅっと強く強く抱き込んでいた。

「お帰り」って言ってやってください。無神経かもしれないと思いつつ促した行平に、彼女は「隼人、お帰り。ごめんね、ごめんね、迎えに行けなくてごめんね」と泣き崩れた。

彼女の傍に寄り添いながら、行平は、初めて喋った隼人少年の顔を思い浮かべていた。
出来るなら、生きてい欲しかった。帰ってきてほしかった。ここに戻らせてやりたかった。

まだ日も明けきらない上に、ずっと吹雪いている空はどんよりと暗かった。
吹雪の音の中で、それでもふわっと暖かい空気が玄関脇にいた行平たちのもとに舞い降りてきた気がした。変声期を迎える前の、高い少年の声が「ただいま」と告げたように思えて仕方なかった。


**

「おまえ、神埜だったんだな」

ひどく長かったように感じる滞在を終えて、玉響を出たのは、夕方近くになってからだった。

あまり長い時間、そばに居残るのもよくないだろうと、麓から駆けつけてくれた佐和子の従姉の到着と入れ替わるようにして、お暇することにした。
社から降りてからずっと、どこかぼんやりとしている桐原の様子も多少心配だったが、神野の「ホント、信じられないお人好し」という嘆息の後、続けられた、

「神域に当てられただけだから1週間もすれば元に戻るよ。……まぁ多少、人格は丸くなってるかもしれないけど。いいことでしょ、たぶん」

との説明を鵜呑みする事にした。

佐和子には、本当のことは話さなかった。
ただ、従姉の意志の強そうな女性に「桐原に気をつけてあげてください」とだけ告げただけだ。それだけで集落にいたこともあったらしい彼女は、佐和子が狙われていたことを悟ったようだった。
なにからなにまですいません、と佐和子の代わりに頭を下げてくれた女性に、行平は曖昧に頭を降ることしかできなかったのだけれど。

「俺は、なにもできてない」

ハンドルを握ったまま、漏らした行平に、神野がわざとらしいため息をこぼしたのがわかった。

「なにそれ。俺に慰めてほしいの?」

今までだったら、間違いなく「そんなわけあるか」と言い返していたはずだ。おそらく神野自身、そう思っていたに違いない。
行平の台詞に本気で驚いたらしい神野が、眼を瞬かせる。

「そうかもしれない、って。なに、滝川サンどうしちゃったの? 頭でも打った?」
「おまえに甘えてたなって自覚があるんだよ、これでも」
「そんなこと、ないでしょ」

困ったように再度溜息を吐いて、神野は窓辺に肘を着く。

「あるよ」

前を向いたまま、行平は言う。

「感謝してる。本当に」

着いてきてくれたことに。手助けをしてくれたことに。支えてくれていたのだろうことに。
情けない話だが、神野が居なかったら、自分一人じゃきっとどうにもなっていなかった。

「もうホント、止めて欲しいんだけど。そう言うの」

心底嫌そうに呟いた神野は、話題を変えるように「神埜のこと、知ってたんだね」と唇を微かに釣り上げた。

「昔、行ったことがあるんだ。神埜の総本家に。それにうちのじいさんは、そう言った類の話に詳しかったから」

行平の特異な力に気づき、対処法や人脈を授けようとしていてくれていたのだと今ならわかる。
けれど、幼かった行平は小難しい話は右から左へ聞き流してしまっていて、詳細を知るまでには至っていなかった。

分かっていたのは、神埜と言う日本で一番と謳われている強い力を持つ家系があること。
そして、その人たちに縋りつけば、妹が見つかるかもしれないと願って、一度無謀な押しかけをしたことがあると言う記憶だけだ。

「神埜の神殺しの鐘が鳴る、ってね」
「あぁ、その節がやたら頭に残って覚えてた」
「ただの伝承だけどね。俺はそんなことはしないし、あの家にも力のある人間もいればない人間もいるよ」

ただ、と神野が喉を小さく鳴らした。

「俺がわざわざ神野(かんの)って名乗ってて、錫杖まで持ってるってのに、滝川サン全然気が付かないから、きれいさっぱり忘れてるのかなって思ってた」
「忘れてるって……知らなかっただけとか普通思わないか」

確かに所謂アンダーグラウンドの世界でなら、神埜は有名だろうけれど。首を傾げた行平に、神野は曖昧な笑みを点した。
その顔に、それ以上言う気はないのだと悟って、行平は小さく息を吐いた。
あと30分もすれば、行平たちが生活する街に戻る。
この二日間の間に縮まったように感じた距離も、分かったような気がした心も、またあの街で今までどおりの位置に戻るのだろか。

「そういや、おまえ。桐原の坊ちゃんの名前呼んだだけで、動きとめて見せてただろ。あれも神埜の力なのか?」
「どっちかって言うと、言霊とか契約とか、そっちの類かな」
「契約って、あいつとなんかしたとか言わないよな」
「気になるのはそこなの」

くすくすと笑みをこぼしながら、「するわけないでしょ」と神野が毒づく。

「あの男を使役してみたところで、何のプラスも俺にはないからね」
「使役って、そんなことできるのか? そういやおまえ、あいつは人間じゃないって言ってたか」
「簡単に言うと、あれのおじいさんがあの神様崩れと交わって子を成してるから、四分の一くらいあの男にも化け物の血が混じってるって話」

本人が知ってたかどうかは知らないけど、物の怪は、言霊に支配されるところがあるからね。

「名前の契約って、聞かない話じゃないでしょ。滝川サンも怪しい美女に名前尋ねられたからって浮かれて簡単に自分の名前教えたりしない方が良いよ」
「なんで俺だよ」
「あんた人だけは良いから」

変なものに付けいれられそう、と神野がからかうように目を細めた。その筆頭がおまえか、と言い掛けて行平は口をつぐむ。
なんだかそれでは、神野が自分のことを好きなのだと自惚れているように聞こえてしまいそうで。そう意識すること自体、おかしいのかもしれないけれど。

会話に飽きてきたのか、神野が口を閉ざして、窓の外に視線を飛ばした。その横顔は、どこか硬質な雰囲気を漂わせている。

「なぁ」

吸いこまれたわけではないと思う。けれど、気が付いたときには言葉になっていた。

「おまえ、なんていうの。名前」

外灯さえ数えるほどしかなかった山中とは程遠い、明るいネオン街に戻って来てしまっていた。あと5分もしないうちに、車は行平の事務所に辿り着く。
車内に緊張感が走ったように感じたのは、行平の思い違いだったかもしれない。しばらくの沈黙の後、神野がぼそりと呟いた。

「柊(ひいらぎ)」
「魔除けの名だよな、おまえのこと守ってやりたくてそう名付けたんだろうな」

神埜と言う家に生まれたからには、魔と立ち向かっていかないだろうから。
悪鬼を退けると言う魔除けの木の名を付けたのではないだろうか、と自然と行平は連想した。名前は大切だ、と言っていた神野の言葉が神埜の家風なのだとしたら、尚更。

けれど、神野は

「そうじゃない」

と、薄く笑んだ。

「これは、俺が生れ落ちて一番初めに貰った、痛烈な皮肉と呪いだよ」
「神野、」
「あ、もうこの辺りでいいよ。俺、適当に帰るからその辺停めてもらっていい?」
「神野!」

言うが早いか、ちょうど信号で停滞中だった助手席のドアを神野が開ける。掴みかけた腕は中を空ぶって、空いた助手席のシートに落ちる。
身軽に路肩に降りた神野がドアを閉める寸前、にこ、と微笑んだ。
何の光の加減なのだろう。それともこれが本物の神野の瞳の色なのだろうか。

怪しく光る蠱惑的な、黄金色の瞳。

「ねぇ、滝川サン。本当は俺は、ずっとあんたに会いたくて、それでここに来たんだって、そう言ったら、どうする?」

――そんな声で、そんなことを言うなよ、と思った。心底思った。
行平が口を開くより早く、神野が「冗談だよ」と笑う。

「じゃあ、ばいばい。それなりに楽しかったよ」

ばたん、とドアが閉まる。その台詞の意味を頭が理解するより前に、行平は神野を追って飛び出しかけた。
けれど、後ろから慣らされたクラクションと、公道に車を放置できるわけがない現実に、頭を抱える羽目になる。

「あんの、馬鹿野郎!」

腹立ちまぎれに叫んで、アクセルを踏む。
雑踏の中、神野の姿はもう視えなくなっていた。

お付き合いくださりありがとうございました!