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花の名前 ―滝川万探偵事務所始末記 序―《17》


【17】


「隼人くん」

確認するように呼びかけた行平の声が、今は聞こえているのか、少年はこくりと頷いた。

――お母さん、心配してる?

窺う調子で吐き出されたそれに、行平は堪らず瞳を逸らしかけてしまった。けれどすぐになんとかして笑みを張り付ける。

「してる。すごくしてるよ。俺は、君のお母さんに君を探してほしいと頼まれたんだ」

――そっか

「そうだよ」

――そっか。でも、僕知ってるんだ。僕、ここから出たら死んじゃうんだよね

寂しそうに、でも当たり前の事実を述べるように少年が口にしたそれに、行平の視線は知らず神野の手を握りしめている自分の手に落ちていた。

――だって、僕が居なくなっちゃったのだいぶ前だもんね。その間に僕の身体死んじゃってるんだって、あの人が言ってたんだ。ねぇ、僕……

「どうした?」

躊躇うように言葉を切った少年を促すように、行平は静かに問いかける。
神隠しに遭った人間がどうなるのか、行平は知らない。だって、帰ってきたと言う人間を見たことがないからだ。

神野は、生きて返ってくるわけじゃないと言った。
少年の言う身体の長期間の不在が死であると言うことも道理かもしれないとも思ってしまう。

――僕が悪いんだ。僕が、お母さんを試すみたいなことしようとしたから、だからっ……!

「隼人くんのせいじゃない!」

――でも、じゃあ誰の所為なの!

泣きじゃくる様にして少年が叫ぶ。じゃあ誰の所為なの。誰のせいで僕はここにいるの!

「それは……」

応えることが出来ない自分の無力さが、不甲斐なさが、たまらなかった。

――だって僕知ってるんだ! 僕はもうお母さんに会えないって! お母さんと喋れないって!

たまに上から見えてたんだと少年は続けた。母親が自分を探している姿を、ずっと見ていたのだと。

――でも、でも! お母さんに僕の声は聞こえないし、僕はお母さんのところにはもう戻れない!

行平は空いている方の手を少年に向かって伸ばす。腕に触れようとしたはずのそれは、なんの手ごたえもなく空ぶった。
目を瞠った行平に、少年が泣きながら笑った。

――触れるわけないじゃないか、僕、もう死んでるんだもの

「お母さんに会いたいよな」

俺だって、生きた妹と一目だけでもいい、会いたかった。
話したかったし、触れたかった。

黙りこくっていた少年が、沈黙の末、こくんと頭を振った。当たり前だった。
会いたくないわけがない。生きて、会いたくないわけがない。

「俺は、君をそこから出してやれるだけの力もないんだと思う。君の身体がこちらに戻ってきたとき、君が本当に……死んでしまっているのか、それとも生きているのか、それも分からない」

少年は、迷う様に縋る様に行平を見ている。
これから告げることは、少年にとってどうしようもなく残酷だと分かっていて、それでも行平は言葉を紡ぐために口を開いた。

「俺にも君みたいに消えてしまった妹が居た。生きて会えなかった。でも、生きているのか死んでしまっているのか、それすら分からない時間が一番つらかった」

――そう、なの

「少なくとも、俺は。――なぁ、隼人くん。俺、今からひどいこと言うよ」

言い切ったくせに後押しが欲しくて、行平は握りしめたままだった神野の手を強く握り込んだ。何の反応もない。けれど、それでも良かった。
神野なら、どう言っただろう。

分からないが、きっと神野自身が正しいと信じることを口にするのだろうと思う。それだけは分かる気がする。

神野は、本質的なところで一度も行平に嘘を吐いていない気がするのだ。

「君がたとえもう生きていなかったとしても、君の身体が自分の元に戻ってきたら、お母さんは喜ぶと思う」

冷たくなっていても、骨になっていたとしても。

「お帰りって、抱きしめてくれると思う」

彼女には、最愛の息子の声は聞こえないだろうけれど。

――お母さん、今でも僕を探してる……?

長い沈黙の後、絞り出されたのはそんな声だった。うん、と行平は頷いた。

「俺みたいな怪しい探偵崩れに依頼するくらい、必死だ。俺は君のお母さんをほんの数日しか見てないけど、分かるよ。君のことすごく大切で、好きで、だからずっとずっと探し続けてる」

息子を探してください、と震える声で依頼した彼女を行平は鮮明に思い出せる。彼女はいつも必死だった。懸命に息子を愛し、探し求めていた。

「お帰り、って言ってくれると思うよ」

きっと彼女は泣くだろうけれど。
泣くのを堪えるように目元に力を入れていた少年の肩からふっと力が抜け落ちた。僕も、と幼い唇が戦慄く。

――僕も、あと何回だって「ただいま」って言いたかった

行平は大きく一度瞬いた。

本当はもっと大きくなって、良く分からないけれど働いて仕事して、そんな大人になってお母さんにきれいな服を着せてあげられたらいいな、とか。
お母さんがしんどい顔して働かなくてもいいようにしてあげられたらいいなとか、思ってたんだけど。

脳裏に留めなく流れ込んでくるのは、全部全部、この子の感情だ。思いだ。
できることなら、一字一句漏らさず覚えていてやりたい。


「ただいまって、一緒に言おう」

お母さんに会おう。

触れられないと分かっていてもう一度伸ばした行平の手に、少年も重ねようと小さな指を伸ばした。
指先と指先が触れ合いかけた、そのときだった。

少年を吹き飛ばすような突風が吹いて、雪で視界が乱れた。先ほどまでの空間が嘘みたいに立ち消えたような、そんな感覚。

「隼人……くん?」

呆然と呟いた行平の前に、子どもの服と、小さな骨がぱらぱらと舞い落ちてきた。
認識しきれないでいる行平を現実に引き戻したのは、ずっと握りしめたままになっていた神野の指先が動いたことだった。

「――神野!」

勢い込んで叫んだ行平に、神野が鬱陶しそうに眉を眇めたのが分かった。そしてゆっくりやたらと強い光を放つ双眸が露わになる。

その瞳が自分を覗き込んでいる行平を見て、それから繋ぎ合っている状態の手を無言で見つめて素直に眉をしかめてみせた。

「なにこれ?」
「え、いや、その」

急にばつが悪くなってぱっと手を離した行平に、さらに神野は不満そうな声を出す。

「なにその反応。滝川サン、電車でたまたま隣に座った女子高生がもたれ掛ってきて喜んでるおっさんみたい」
「なんだその喩は!」

まるで俺が変態みたいじゃねぇか、と。勢い怒鳴った行平に、神野は「冗談だってば」と笑いながら、行平の腕の中から立ち上がる。

――なんでおまえはそんな、いつも通りなんだ。

間違いなく毒気を抜かれてしまった行平を後目に、神野は少し離れたところで倒れていた桐原の横腹をツンツンと爪先で突いている。

「うん、大丈夫。さすが図太いね、この男。生きてる生きてる」
「生きてる生きてるって、おまえ、なにしてきたんだ!」
「え? うーん、ちょっとした交渉? まぁこれからはこの男が心入れ替えてあの神様崩れの相手、してくれんじゃないの?」

まぁそもそもそれが本来の役目なんだし、と。面倒くさそうに首を鳴らした神野に、行平は困ったように頭に手をやる。

「あの子は」

どうなった、と。何とか押し出した問いに、神野は確かに微笑んだ。

「俺は何もしてない。救ったのは、あんたでしょ」

そうしてまたゆっくりと行平の傍まで戻って来て屈み込む。白い雪の中に落ちていた芥子色のトレーナーに、丁寧に落ちていた骨を一つ一つ乗せている。行平もその隣に膝を着いて手を伸ばす。
同じものを取ろうとしたらしい指が当たって、行平はほんの少し息を詰めた。

触れるのは、生きているからだ。

「神野」

固い骨のかけらを撫ぜていた神野の手が止まる。

「二度としないでくれ、あんなことは」
「……あんなことって、なに?」

分かっているだろうくせに、神野は試すように笑う。

「死ぬな」

端的に呟いた行平に、神野は何も言わなかった。

「死なないでくれ、頼むから」

神野の手から、隼人少年のかけらが落ちた。芥子色のトレーナーに集まったそれを行平は宝物のように包みこんだ。

「死なないよ、俺は」

強いからね、と嘯くのかと思ったけれど、違った。

「残念なことに、簡単に死ぬようにできてないんだよね」

空からは雪がやむことなく降り続いている。
足跡も簡単に消え去って、行平たちが居た場所もあっという間に書き換えてしまう。

「ホント、お人好しだよね。滝川サンは」

多分違う、と行平は思い始めていた。おまえだからなんだ、きっと。
放っておけないのも、苦しくてたまらないのも。
それがどんな感情なのか、まだはっきりと言葉には出せないけれど。

お付き合いくださりありがとうございました!