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花の名前 ―滝川万探偵事務所始末記 序―《16》


【16】


「ほら、お出ましだ」

謳うように神野が呟いた。その声に導かれるようにして、行平は腕を外した。いつのまにか風は止んで、降り続いていた雪も途切れていた。
まるで、この一帯の空間だけ、時間が止まったような感覚。その不思議な力を感じながら、祠を見る。

そこに立っていたのは、白い着物を着た若い女だった。

「玉響、さま……?」

操られるように口から紡がれたのは、そこに祭られていると言う神の呼び名だった。
女の色のない瞳が嫣然と行平を捉えて、それから舐めるように桐原を、最後に神野を捉えて止まった。

「ねぇ、あんたの大事にしてる血族は、それじゃないよ」

それ、と神野が言った途端、女の腰もとに頼りなく縋りついている子どもの姿が浮かび上がった。

「隼人くん!」

反射的に叫んだ行平の声が聞えていないのか、少年はちらりとも反応を見せなかった。駆け寄ろうとした行平を神野は言葉一つで押しとめる。

「あれは今、ここにはいないよ。余計なことして俺の邪魔しないで」

――でも、あたし、子どもが欲しいのよ

脳裏に直接響く甘い声に、行平は膝から崩れ落ちそうになった。
必死にこらえて、神野を横目で確認する。強い声だ。圧倒的な威圧感。これが神様なのだろうか。
神野はと言えば、平然とした表情のまま、彼女を見据えている。しゃらん、とまた錫杖が鳴った。

「それはあんたの子どもじゃない。あんたが欲しかったのは、桐原の血族なはずだ」

――でも、この子は、あたしのだわ。ちゃんと捧げものの印があったもの

「でも、本物はそれじゃない」

言い含めるように神野は彼女に説く。その平坦な声に行平が感じたのは、確かな恐れだった。
神野は、桐原と隼人少年を本当に取り換えるつもりなのだろうか。

「神、野」

けれど止めてくれと言っていいのかどうか行平は迷ってもいた。今を逃したら、きっともう二度とあの子どもに触れあうチャンスはないのだ。

「本物は、こっちだ」

その台詞に、彼女の視線が再び俯いている桐原を捉えた。
桐原の肩がびくりと震える。けれど、玉響の放つ神気に圧されているのか、桐原は一言も声を発せないでいるようだった。
女の視線が、興味なさそうに桐原から外れる。

――いらない。この子の方が良いわ。それか、あなたがいいわ

「俺?」

神野が苦笑した。

「それはいくらなんでも等価な交換じゃないよね。どうせ生きて返ってくるわけじゃないのに」

――でも、身体は返してあげるわ。いいじゃない。あなただって、ひとりは寂しいでしょ。あたしの気持ち、分かるでしょ?

絡め取るような女の声に、神野が失笑する。
ひどく嫌な感じがした。「神野」と呼ぼうとした声はしっかりとした音にならない。手を伸ばしたいのに届かない。それがたまらなくもどかしい。
それでも行平の微かな声が届いたのか、神野はほんの少し視線を傾けた。

そして困ったように眉根を下げた。初めて見る顔だと、思った。

「そうだね、でも」

吐息の様な声だった。ひとりじゃないだろう、と言ってやりたかった自分の傲慢さに行平は内心息を呑んでいた。

「この人、馬鹿なんだよ。すげぇ馬鹿なの。でも馬鹿だから、いくら俺が駄目だって言ったって、決着がつくところまで諦めてくれそうになくてさ。だから返してやってくれないかな、その子の身体」

今度こそ、息が止まるかと思った。けれど、神野はまっすぐ玉響を見つめたまま、行平を見ようとはしなかった。

「ホントは手荒いことも面倒なこともしたくなかったんだけど、あぁもう、俺も馬鹿がうつっちゃったのかもしれないな」

――あなたが来てくれたら、返してあげるわ。本当よ、面倒じゃないわ

「駄目。でもその代り」

しゃなり、と三度錫杖が鳴った。
場の空気が張り詰めていくのが行平にも分かった。何か恐ろしいことが起こるのではないかと嫌な予感だけが先行していく。

「ほんのちょっとだけ、三人で大人の話でもしようか」

とん、と錫杖の先端が雪中に勢いよく振り下ろされた刹那、神野の身体が崩れ落ちた。
同じくして桐原の身体も倒れ、祠の前から玉響の姿も消え去っていた。


「神……野?」

急に軽くなった脚で、行平は神野の傍に駆け寄った。触れた肩はひどく冷たかった。

「おい、神野!」

雪の上から奪うように細い肢体を掬い上げて、心臓に手を当てる。生きている。
そのことにたまらなく安堵した。
けれど、神野からは何の反応も返ってこない。まるですべてを停止させてしまったかのように記憶も感情も流れてこない。

「おい、神野! 神野!」

不安に駆られて行平は何度も何度も「神野」と呼びかける。

「くそ、おまえ、起きろよ! いっつも、鬱陶しいくらい人の気配に敏感なくせして!」

もしこのまま神野の意識が戻らなかったら? 不意に息が止まってしまったら――?
恐ろしい妄想を振り切りたくて、行平は縋る様に神野の手を握りしめていた。
神野と桐原と、そして玉響が消えた。おそらく、行平の手の届かないどこかへ。

それが、神域なのだろうか。
ぞくり、と背筋が泡立った。妹が消えたのも、そこだったのか。そして隼人少年が浚われたのも。

「……隼人、くん?」

ふっと何かの気配を感じて、行平は神野から視線を外して上空に向けた。
そこには悲しそうな顔の写真でしか見たことがなかった少年がいた。

お付き合いくださりありがとうございました!