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花の刻印 ―滝川万探偵事務所始末記 弐―《1》

後悔しているとしたら、それはたった一つだ。
あの日、出会わなければよかった。
そうだったとしたら、きっと、俺は、化け物のままでいられたのに。
人間でいたいだなんて、あいされたいだなんて、願うようになんてならなかったのに。


【花の刻印】



確かめようと思わないから、行平が何をどこまで知っているのか神野は知らない。
神埜のことだとか、呪殺屋のことだとか、――神野自身のことだとか。

「聞いてこないお人好しさ加減に付けこんで、知らないで通そうとしてるだけ、だけどね」

それもいつまで続くのか、知れないけれど。
呟いて、東京で住処にしているアパートの鍵穴に鍵を差し込もうとした時だった。感じ取った微かな違和感に、神野は眉をひそめる。

――中に、誰かいる。
分かったところで、逃げるつもりも隠れるつもりも神野にはない。
ガチャリ、と音を立てて、ゆっくりいつも通りドアを開け、室内に踏み込む。靴は脱がないままで、灯りだけ灯す。

「……おまえ、」

そこにいた人物が視界に入った瞬間、認識するよりも早く身体が微かに強張った。
ワンルームの部屋の中央に悠然と立っていた男が、にこりと笑みを張り付ける。
あの集落で垣間見た男と似た、支配者の空気を纏っているが、桐原よりも断然強いそれだ。
事実、狭い集落でしか権限を振りかざせない男と違って、この子どもはとある世界では測りしえない権力を得ることになるだろう時代の主なのだ。

「久しぶり、兄さん」

鼻筋の通った整った目鼻立ちと、いまどき珍しいのかもしれない闇色の髪。
――もしかしたら。もしかしたら、行平がこの子どもを見たら、自分に似ていると言うのかもしれないと想像しながら、神野は対抗するように小さな微笑を浮かべて見せた。

「確かに久しぶり。なんだかしばらく会わないうちにまた大きくなった?」
「さすがに半年かそこらで身長何センチも伸びないよ。兄さんはしばらく会わないうちに、なんか痩せた?」

ちゃんとご飯とか食べてるの、と言葉遊びを楽しむように笑いながら、それが近づいてくるのを、神野は戸を背にしたままじっと見据えていた。
とん、とそれの手が神野の顔の横に着く。まるで閉じ込められたみたいな感覚に陥るのが不快だった。

「ほら、もうほとんど身長も変わらないでしょ」
「……こんなとこまで何しに来たの。まさか家出とか言わないよな」
「心配してくれてるんだ、さすが兄さん。優しいね。でも、家出したのは俺じゃないと思うけど」

子どものどこか神経質そうな指先が顎にかかる。振り払うのも面倒で、なすがままに上向かされた視界の先で、子どもがうっそりと微笑んだ。

「家出したのは、兄さんじゃない」
「家出って言うのは、10代の子どもに適用されるべき言い回しだと思うけどね」
「庇護下にあるべき人間が飛び出して行ったら、十分当てはまるんじゃないかな。でも」

闇色の瞳に浮かんでいるのは、間違いなく喜色だ。
あぁもう面倒くさい。面倒くさい、なにもかもが。――これが相手が行平だったら、こんな言い回しなんてしない。もっとストレートに言葉をぶつけて、怒ってみせて、それで終わりだ。

「俺は兄さんを信用してるから、だから、これだけの間、兄さんの家出を黙認してあげてたんだよ」

なにが「してあげた」だ。反論する代わりに溜息を落として、子どもを一瞥する。けれど相手は、にこ、と目元を笑ませてみせただけで。

「玉響の一件は聞いたよ。さすが兄さんだ。神降ろしをできるのは、神埜といえ、今じゃ俺と兄さんくらいのものだからね」
「……それで、なに」
「でも相当な負担だったみたいだね。俺の気配に全然気づいてなかったでしょ、らしくない」

神埜の庇護のない場所で対峙する相手じゃないと思うけどね、と心配そうに眉をひそめた子どもに、神野は再度息を吐いた。

「だから、それがなんだ」
「ねぇ、兄さん」

甘い、毒を孕んだ声だ。力のある者の、それ。

「誰の為に、そんな無茶しようと思ったの?」
「俺にだって、良心の呵責が痛むときぐらいあるの」
「神隠しに遭った子どもが可哀そうにでもなったの、兄さんが」
「おまえが俺をどう思ってるのか知らないけどね、そう言う風に思うことくらいあるんだって」
「どう思ってるって」

さもおかしそうに子どもが喉を鳴らす。その仕草に感じる既視感に吐きそうになる。似ているのだ、自分に。

「臆病者で寂しがり。おまけに愛されたがりで面倒臭い。でも俺だけの可愛い兄さんだって、そう思ってるよ」

顎を掴んでいた指先が外れて、輪郭をなぞる様に頬に触れる。そこから感じるのは温もりからは程遠かった。どちらかと言えば、今にも害されるのではないかと言う不安。
けれど、そんな思考をおくびにも出さないままで、子どもを静かに見つめ返す。
ただの意地だ。
神埜に生まれてからずっと、身に付けざるを得なかった神野の意固地なまでの決意だった。


「『柊』」

その唇が、名前を紡いだ瞬間、まるで身体が自分のものではなくなったような虚脱感に襲われだした。それでもあくまで平然と目の前の子どもと対峙する。背は、間違いなく戸にもたれたがっていたけれど。

「ひざまずけ、柊」

脳に声が届いたのと、膝が落ちたのが同時だった。
自分で自分の身体の自由が利かなくなるのは、たまらない。――だから、嫌いだと神野は思う。心底、嫌いだ。この一族は。

「そのまま俺にかしづいて、ご奉仕してよ」
「っ、この……クソガキ」
「その反抗的な目も態度も好きだけど。――気に入らないな。兄さん、俺以外の男と寝たよね」

散漫に子どもの手が落ちた頭を引き上げるように前髪を掴む。冷えたのは、反論しかけていた心だった。
見下ろしてくる瞳に滲むのは、どこまでも支配者のそれなのだ。

「たった半年、俺から離れただけで、もう忘れたの? あなたが俺に逆らえるわけがない」
「……おまえに、逆らえないわけじゃ、ない」
「『神埜』にでしょ? だったら同じことじゃない。もうあの家は俺のものになるんだから」

ねぇ、と子どもが嘯く。

「忘れたの? それとも、もう一度、一からやり方教えてほしいから焦らしてる、とか?」

可愛いね、柊。囁く声に背筋が震えた。

お付き合いくださりありがとうございました!