これは、呪いだ。
分かっている。理解している。ただ、身を任し切ることが出来ない。
いっそ、自分の感情も全く動かなくなってしまえばいいのに。それさえも出来ない。
神野の腕が意思とは関係なく持ち上がって、目の前の下肢にかかる。
何度もやった行為をなぞる様に、指先は正確にジッパーを引き下げていた。既に存在を主張し始めていた先端が手の甲に当たる。
生暖かい感触に、眉を眇めそうになって、誤魔化すように目を閉じた。
子どもの手があやす仕草で、神野の髪の毛を梳く。そして米神に触れる。じわりと滲んだのがなんだったのかは考えたくはなかった。
「最初はどうするんだったっけ?」
「悪趣味だな」
短く吐き捨てた唇で、鈴口に口付ける。ぷっくりと膨らんだ密に舌を這わして裏筋を舐め上げてみせると、子どもが目を細めた。
「うん、上手。――えらいね、兄さんは」
青臭い匂いが鼻に付く。フェラを好む性癖が童貞染みていると悪態を吐き掛けて、止めた。どうせ面白がるだけだ。
ただの反復行為だと思うのが、一番楽な選択だった。
その態度が気にくわなかったのか、米神に触れていた手が、乱雑に後頭部を掴んで上向かせてきた。
喉の奥に当たった尖りに、えづきそうになる。けれどそれさえも許さない傲慢さで抜き差しが繰り返される。
「ふふ、兄さん、顔、綺麗だからそそられる。そうやって、苦しそうな顔してみせるのも、俺は好きだな」
俺以外には見せないもんね、そんな顔。
愉しそうに嘯くその顔と、間違いなく自分の顔は似ていると思う。半分は、同じ血が流れているのだ。それに欲情できるのだから、やはりこの子どもはどこかおかしい。
――俺が言えた義理じゃ、ないとは思うけど。
「ん、――いい。出すよ、零さないで、ね?」
言葉と同時に喉に直接注ぎこまれた熱に、神野は微かに眉根を寄せる。
独特のいがらっぽさが喉の内側にへばりついている感じがした。濯ぎたい。あるいは吐き出してしまいたい。
口内を占拠していた熱量がゆっくりと引き抜かれていく。咽こみそうになるのを耐えて、無言を貫いていると、子どもの指が口の端に触れた。白濁がねっとりと唇になすりつけておきながら、
「美味しい?」
と首を傾げて覗き込んでくる。
そこで「美味しい」と応えるのは、マゾヒストかAVに感化された拙い子どもくらいだろうと嘆息したくなった。
「髪、長いの切っちゃったんだね。勿体ない。綺麗な黒髪だったのに」
そんな何の役にも立たないものは、あの家を出た直後に捨てた。
「それに兄さんの顔だったら、和装の方が似合うよ」
いつまでもいい年をした男に、女物の着物を強要してくる神経も、神野には理解しがたいものだった。
「ねぇ、ずっとそうやって黙ってるつもり? 俺と会うの久しぶりだから照れてる?」
喉が気持ち悪かった。溜まっているだろう胃も熱いように思えて仕方がなかった。
ねぇ、ともう一度こどもが微笑む。
「ベッドに移ろうか、兄さん」
いっそ命じてもらった方が良いのだ。そしてこの子どもも知っている。なのにそれをしない底意地に笑いそうになる。
「そうだ、兄さん。俺はね、兄さんを信用してるから、兄さんが『呪殺屋』をやりたいのなら黙認してもいいと思ってるんだよ。ただ蓑原に手を出したのは、ちょっと頂けなかったかな」
不意に逸れた筋に、罠だと理解していながらも、神野は子どもに視線を戻した。
「あの男、神埜にわざわざやって来たよ。『呪殺屋』を探し出して、息子の呪いをどうにかしろ、ってね」
いかにも人を使うことに慣れた初老に差し掛かっている代議士の狡猾な顔と、その息子のへらへらとした軽薄な笑顔が脳裏に浮かぶ。
続けて蘇ったのは、昏く淀んだ瞳で、「ころして」と淡々と告げた少女の闇だった。
「だったら、俺を突きだしたら済む話だろ。これが件の呪殺屋ですって」
吐き捨てると、子どもはわざとらしく目を瞬かせてから、慈愛に似た表情を作り出した。
「いやだな。そんなこと俺がするわけないじゃない。でも、兄さん、どうして大ごとになるだろうって分かってて、手を出したの?」
「ただの気まぐれ、だけど」
「そうなの? それならいいけど。もしかして同情でもしたのかって思っちゃった。あの男の息子に組み敷かれてる女の子に自分を重ねただなんて、兄さん、言わないよね?」
「そんなわけないだろ」
「だよね。良かった。兄さんは無理やり俺の言うこと聞いてる訳じゃないものね」
想定していたよりもずっと固くなってしまった声音に、内心舌を打つ。弱さを見せるくらいなら死んだ方がマシだと、もうずっと思っている。
「でもちょっと困ってるのは本当なんだよね。呪いを無にするにしても、兄さんの力の問題だけじゃなくなってる。かといって、返しの風を吹かしたら兄さんがどうなるか分からないし、可愛そうな女の子の身にも降りかかることになる」
兄さんを苦しめるつもりも、被害者の善良な少女を苦しめるつもりもないんだと、子どもが囁く。
そしてまるで名案を思い付いたと言わんばかりに「そうだ」と笑みを深めた。
「あの探偵さんに返そうか。兄さんが関わりあったせいで、身体に兄さんの気も色濃く残ってるみたいだし、ちょうどいいよね」
「素人に手を出すのは、神埜のご法度じゃなかった?」
あくまでも淡々と反論して、神野は唇に触れたままだった子どもの手を振り払った。
「神埜の意にそぐわないことは許されない、んだよね。確か」
「そうだね。確かに素人を巻き込むのなんてナンセンスだ。でも、仕方ないよね」
振り払われた手を見つめながら子どもがうっそり微笑う。
「一族を守る大義のためなら、なんでも許される。それが神埜だ。兄さんもよく知ってるはずだけど?」
「今の話のどこが大義だ」
「兄さんは神埜の所有物だからね。兄さんに害が降りかかる可能性を排除できるなら、素人を巻き込んだとしても、それは仕方のないことだと判断される。――俺にとっても不本意ではあるけどね。でも、兄さんの所為なんだよ」
優しいと勘違いしてしまいそうな甘い声で子どもが繰り返す。
「兄さんが悪い」
だからそれは、いったい何の呪いだ。
ずくん、と脇腹が熱を伴った痛みを訴えてきた。外部からではない。内側から生じる鈍痛。
「ねぇ、兄さん」
先ほど振り払った掌が、目の前に差し出されている。
「ベッドに行こうか」
命令ではない。おまえが望めと突きつけてくる欺瞞に、失笑するしかできなかった。
子どもなのだ。
自分の思う通りにならないことは何一つないと、信じている傲慢な、子ども。
そうしてそれが、過去から現在において、真実だからたまらない。
一つ息を落として、神野は髪をかきあげた。あの長かった髪の唯一の美点は、表情を覆い隠してくれていたことだろうか。
「――これくらいの案件で関係ない人間を巻き込んだら、神埜の名折れだ」
ドアに付いた手を支えに、身体を起こす。
静かに見つめた先で、子どもの唇がきれいに弧を描いた。
「うん、そうだね。関係のない人だったら、巻き込むわけにはいかないよね」
「関係ない」
行平の顔がちらつくせいで、米神が痛んだ。幼い行平の興味津々と言った顔と、自分に「またね」と手を振ってくれた笑顔。妹が居ないと泣き叫ぶ残像が消えると、不機嫌そうな大人の行平のしかめ面が浮かんできた。
――関係、ない。
そして本当にここ最近、見せてくれるようになった柔らかい色合いの笑みも。
お付き合いくださりありがとうございました!