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花の名前 ―滝川万探偵事務所始末記 弐―《3》


子どもを押しのけるようにして、靴を脱いだ。部屋の奥に唯一ある家具はベッドくらいだった。この家に長く居るつもりもなかったから、最低限のものしかない。
白いシーツに腰を下ろすと、近づいてきた子どもがゆっくり肩を押した。
黒い毛先がシーツの上に散らばって、子どもが嬉しそうに口元をほころばせる。そうやってると年相応に見えなくもないのになと、どうでもいいことを考えて、思考を飛ばす。


「兄さん」

甘えると言うよりかは、存在を確かめるように子どもは「兄さん」と神野を呼ぶように思う。
そんな簡単に消えてなくなるほど、繊細には出来ていないと知っているだろうに。

「兄さん」

愛撫するように唇が頬に落ちて、唇に落ちる。首筋に、鎖骨にと続くそれは、間違いなく所有印だ。
この子どもの疑り深さと独占欲の強さがよく出ていると感心してしまいそうだった。

「ねぇ、兄さん」

されるがままに脱がされたシャツの行方をなんとなく視線で追いながら、そう言えばと、行平に良く問われる言葉が浮かんだ。

おまえ、そんな薄着で寒くないのか。そう言って眉をひそめるのは、見ている自分が寒いせいもあるのだろう。行平はあれでいて寒さに弱い。
痛覚が鈍いんだと笑ったら、「また馬鹿なことを」と言わんばかりに溜息を吐かれたことも連想されて、知らず口角が微かに上がった。

それがお気に召さなかったらしい子どもが、咎めるように胸の突起に歯を立てる。
執拗に舌先で転がす動きにも、笑えるほどには身体は何の反応も示さない。それでも子どもは、「人形みたい」で「大人しくて従順」な「可愛い兄さん」なのだろうと思えば思うほど馬鹿らしかった。

本当に、馬鹿馬鹿しいと思う。心の底から、そう疎んでいる。

「兄さんはさ、父さんと一緒にあの家で暮らすのが嫌だっただけだよね」

子どもの指先が秘部に触れる。何の潤滑剤を使わなくとも、ゆっくりと浸食していく。
慣らされた行為だ。どうすれば痛みが減るかも、快感の逃し方も、嫌と言うほど知っている。

「でもそれももう問題ないよ」

侵入してくる指が増えて、覚えた圧迫感に息を細く吐き出す。なんとなく電気傘の中で死んでいる虫を数えていた目元に子どもが唇を寄せた。

「俺もね、春からこっちに出てくるんだ」

降ってきた台詞に、神野は子どもに視線を向ける。その先で子どもが満足そうに、にこと笑った。

「こっちの大学に通うには本家からじゃ便が悪いからね。だから兄さん、俺と一緒に二人で暮らそうか」
「……折角一人暮らしできるんなら、満喫したら? どうせ今のうちしかできないんだから」

まばらに蠢く指先から意識をずらして、平坦な声音のまま突きつける。子どもはさも愉しそうに喉を鳴らした。

「心配してくれてるの? 本当、兄さんは優しいよね。でも大丈夫」

指が引き抜かれて、次いで押し当てられたのは比べ物にならない大きさの熱量だった。無反応な身内に何をそこまで興奮できるのか。一度聞いてみたい気もするが、きっと神野には理解できない感情だろう。

……でも、あるいは。

「俺は兄さんと二人で暮らすの楽しみにしてるんだ。すごい楽しみ」

この異常な執着は、自分が行平に向けているものと同質なのかもしれない。

「でも兄さん。これは提案じゃないよ。だから兄さんが意見を言う意味なんてないんだ」

固い先端がずっと押し入ってくる感覚を逃すように、力を抜く。そんなこちらの苦労なんて知ってか知らずか、子どもは律動を開始させた。
終われ、早く、終われ。念じるそれに、意味がないことなど、分かっていたけれど。

「兄さんが俺から離れられるわけがないんだ」

子どもは嗤っていた。

「俺から離れようと思うな、『柊』」






『呪殺屋』をしようと思った深い訳など、神野にはない。

ただ噂が流れれば、行平が気に留めてくれるかもしれないと思ったからだ。
神野の思考回路は、いっそ異常なほど、行平を中心に回り続けている。


無造作に首筋に切りそろえられた黒髪を揺らして、少女は俯いていた。
可哀そうだな、と思った。
そしてそんな感慨が自分に残っていることに、神野自身が一番驚いた。
けれど、かわいそうだった。
生気のない顔で彼女は「ころして」と吐き出した。

「あの男が憎い」

きっとあたしはもう普通になれない。髪の毛も伸ばせない、スカートもはけない。みんなみたいな恋愛も触れ合いもきっとできない。
淡々と機械のような声音で少女は呟いた。

「だからころしたいの」

握りしめられた指先は白くなっていた。
可哀そうだと、思ってしまったのだ。
だから、今までの戯れの様な呪法と違い、本式の呪殺に手を出した。
そいつが死ぬことで、少女が清められると思うほど、お気楽には出来ていない。
でも、生きているだけで苦しいだろう。つらいだろう。
だから、神野は微笑んだ。
大丈夫、俺が望みをかなえてあげる。そう告げた瞬間、神野の脳裏に浮かんだのは、自分を見下ろしてくる子どもの歪んだ欲望そのものだった。





「兄さん」

静かな空間に響いた呼びかけに、神野は視線だけを巡らした。
子どもは先ほどの痴態など知らないみたいな真面目な顔で、神野を見ている。

「俺がここに来たのはね、新生活のための下見と、蓑原からの依頼の他にもう一つあるんだ」
「おまえの下見と仕事を一緒にしていいの」
「まぁいいでしょ、それくらい」

こう見えても時間とるの大変だったんだよ、と子どもが微笑む。ならいっそ取れなくなってくれればよかったのに、と神野は眉を上げた。

「そんな不満そうな顔しないでよ。心配しなくても、ちゃぁんと、俺は次期当主としての役割を果たしてるよ」
「そう言う意味じゃない」
「そうなの? でも俺が当主になった方が兄さんも安心できると思うんだけどな。――と、あぁごめん。話が逸れたね。ねぇ、兄さん」

嫣然と子どもが微笑う。

「二人目の呪殺屋の噂、兄さんは知ってる?」

お付き合いくださりありがとうございました!