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花の名前 ―滝川万探偵事務所始末記 弐―《4》


雨が降っていた。

三月のまだ冷たい霧雨に衣服が肌に張り付く感触に、神野は微かに眉をひそめた。
なら傘をさせ、と行平が居たら間違いなく苦言を呈するだろうが、神野は傘をさすと言う概念が薄い。
額に張り付く水を含んだ前髪をぞんざいにかきやって、目前のビルを見上げる。
何度足を運んだか知れない、行平の居住地だ。

今のような関係になる前から、週に一度のペースを保って足を運んでいたから、これだけ間が開くのは初めてかもしれなかった。指先が安定を求めるように、ポケットに落とし込まれ続けている銀色に触れる。
金属特有のひやりとした冷たさが自身の体温で徐々に熱を持っていく。次の一手を踏み込めずにいると、はるか上で、窓が開く鈍い音がした。


「神野」

不機嫌そうな声に、神野はゆるく頭を振った。とどめなく落ちてくる雨粒が視界を瀬切るせいで、行平の表情ははっきりとしないが、声と同じような顔をしているのだろうと思う。

「そんなとこに突っ立ってねぇで、上がるなら上がってこい」

邪魔になるだろと今にも言いだしそうな口ぶりに、神野は口元だけ笑みの形に引き上げて、小さく手を振ってみせた。

きっと呆れた顔になっただろうと想像しながら、ビルに足を踏み入れる。無機質な階段を上り、目的の階で立ち止まる。
滝川万探偵事務所、と記されているプレートにそっと触れてから、ドアノブを捻る。鍵はかかっていなかった。

「久しぶり、滝川さん」

奥の自室からちょうど出てきたところだった行平と目が合った。にこ、と笑い掛ければ、行平が手にしていたタオルを頭にかぶせてきた。
思わずきょとんとタオル越しに見上げると、行平が「濡れる」と眉をしかめた。
確かにそうだな、と神野は小さく笑う。

「コントみたいに滑らないでね、俺、絶対笑うから」
「だったら傘くらい差してこい。風邪ひくぞ」
「そう言えば、俺、風邪って一回もひいたことないなぁ」

行平の大きな手がゆっくりとしたリズムで、毛先から落ちる雫を拭う。

「面倒くさがってないで、貸してやるから。シャワー浴びて着替えて来いって」

見てる方が寒い、と背を叩かれて、神野は軽く肩をすくめた。離れていった指先を物欲しく思いながら、タオルを頭から乱雑に取り払って、行平を見る。

「それ、誘ってる?」
「……おまえな」

茶化してみた途端、律儀に真面目な反応をする行平に、安堵する。いつもの行平だ。そして、神野自身が求めている日常だ。

「冗談だって。冗談でもないけど。欲求不満? 滝川サン。触りたかったのかなぁって邪推しちゃったじゃん」
「馬鹿なこと言ってないで、とっとと入って来い」
「覗きに来ない?」
「誰がするか!」

条件反射染みたそれで反論してきた行平に、神野は楽しそうな声を落とした。

「良かった。俺、今、そう言う気分じゃないんだよね」
「頼まれても触んねぇし、覗かねぇから風呂でもなんでも好きにしろよ、もう」

溜息を吐いてみせた行平に「苛々してるね」と言葉を放ってから「じゃあお言葉に甘えよっかな」と身をひるがえす。
何度か使ったことのある浴室の使用方法も、行平の部屋着の置場も、神野は知っている。

「ちなみに、これ前振りでもなんでもないからね。入ってこなくて良いからね」
「だから誰がするかって言ってんだろうが」

ドアを閉める前に落としてみた駄目押しに、行平が不本意な声で応じたのに、神野は微かに喉を鳴らした。

――別に、俺は気にしないんだけど。

濡れたカットソーを脱ぎ捨てて、露わになった肌を醒めた目で神野は観察する。まだ色濃く残っている跡は、行平が見たら確実に不快には思うだろう。
それに……。

「あれは、失敗だったな、ホント」

玉響の一件で、行平に過去を視られてしまったのは、間違いなく失策だった。
そのあとの反応と併せみれば、行平が何を視たのか判断するのは造作ない。
弱い存在になるつもりはない。溜め込んでいる闇を見て欲しいとも暴いて欲しいとも思えない。
なのに、行平の傍にいると、ときたまそれがぶれそうになるから困るのだ。

ノズルを捻ると、お湯になりきっていたい冷水が降り注いできた。冷たい、とはそこまで思えなかったのだけれど。
これで少しでも頭を冷やせればいい、と気が付けば、願うように念じてしまっていた。

今日何をするためにここに来たのか、その目的までぶれさせてしまうわけにはいかないだろう。


行平の自室に入る前、事務所の応接間の窓辺に設置されている所長机の上で無防備に開かれているパソコンのデスクトップが見えた。
表示されていたのは、メールの受信画面だった。

仮にも探偵事務所で粗雑に個人情報を取り扱っていいのかと苦笑しかけて、もしかして来たのが自分だからだろうかと疑った。
もし、そうなのだとしたら、行平らし過ぎた。甘い。そして、とんでもないお人好しだ。

――呪殺屋を探して。もう一度どうしても会わないといけないの。

一文を脳裏に映し出して、神野は小さく嗤った。

二人目の呪殺屋。

それが果して吉と出るのか、凶と出るのか。
行平がどう捉えているのか。答えなど分かりきっているはずなのに、少しだけ神野は期待している自分に気づいていて、そして、もう一度そんな自分を嗤った。

お付き合いくださりありがとうございました!