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想像の、ナナメ上《1》

なんというか、悪夢だった。
寝汚い俺が、うっかり叫んで朝方の六時に起きてしまうくらいには悪夢だった。

「……」

自室のベッドで一人、悶えること数分。若干冷静さを取り戻した頭で「いや違う。そんなことないような気がする」と否定を試みてみたが、だがしかし悪夢だった。


「忘れよう」

ぼそりと。間違いなく六年来の悪友が聞いていたら突っ込んできただろうが、祥平はいたって真剣だった。

「忘れる。俺は忘れる。忘れる」

呪文のごとく繰り返し、最後に一回ばちんと両頬を叩いてみる。気合いだ。
だが、こんな呪文もどきで記憶を抹消できるのなら、たぶん誰も鬱にならない。
いやそもそも俺、鬱とか絶対ならないけど。どっちかっつうと、やたら気ぃ遣ってるあいつの方がなりそうだけど。

と、人当たり良く笑っているイメージの強い野々宮の顔を連想した瞬間。むくむくと記憶の底から、今朝見た夢および数日前の元凶が蘇ってきて、死んだ。

――大丈夫だって、なぁ、祥平。


今までの付き合いの中で聞いたことがない類の、甘い声だった。
そんな声で呼ぶなよ、名前を。

「って違うだろ! 死ね、もうマジで!」

主に、俺の海馬。というか記憶細胞。
のたうちついでに頭を掻き毟っていたら、さすがに煩かったのか隣の部屋からドンと壁を蹴られた。
「死ね!」と反射のごとく叫び返しそうになったのを寸で堪えて、枕に頭を擦り付けた。そして渦巻くいろいろを噛み殺そうと試みる。

「あー……、ドラえもんとか出てこねぇかな、マジで」

小学生の頃から変わっていないと称される思考でもって唸って、枕元に放り出しているスマートフォンに手を伸ばす。六時どころか、まだ五時だった。

「悪い、ミヤ」

間違いなく聞こえていないだろうが、要は気持ちである。
謝るだけ謝って自分的にすっきりしたところで、再び寝ようと目論んでみたのだが、脳内からいろんなあれやらこれやらがちっとも消去されてくれないのが、なんともはやだった。恐ろしい。

「っつか、なんでこんなことになったんだ、俺。いや、覚えるけど。覚えてたくないのに覚えてるけど……!」

なんだこの無限ループ。うっかり悶えてから、ほんの少しだけ我に返れた祥平は、無我の境地に行きつくべく、来週提出のレポートの構成について思考を馳せてみた。
びっくりするくらい、なんの発展性も見えてこなかった。



【1】



「うっわ、俺が言うのもなんだけど、祥平、ものすごい残念な顔になってるよ」
「……放っとけ」

ガチャリとドアを開けて共有スペースのリビング兼ダイニングに顔を出した瞬間、野々宮が発した台詞に、うんざりと頭を振る。
いや知ってるから。知ってるけども、放っておいてほしい。頼むから。おまえが仮に俺を本気で心配してるのだとしたら、だが。
案の定、奴は「寝れなかったみたいだもんねぇ」と腹の立つ笑みを浮かべただけだった。

「寝てた」
「またまたぁ。俺、思いっきり壁蹴られて眼ぇ覚めたんですけど。あれ祥平じゃなかったら誰よ」
「知るか。それかいっそ祟られろ」

俺には呑めないブラックコーヒーをこれ見よがしに飲んでいた野々宮が、わざとらしく唇を尖らした。

「もしホントに出たとして、怖がるの俺じゃなくておまえじゃん」

……否定できないところが、業腹である。そして口で勝てないのも今更である。

せめてもの腹いせに無言のまま冷蔵庫を開けて、牛乳パックに直接口づけてぐびぐびやっていると、野々宮の「ぎゃ、ちょっと止めてくんない、それマジで!」との叫びが聞えてきたが、無視してやった。

「ちょっとその勝ち誇ったような顔止めてくんない、って言うか子どもの腹いせみたいなことしないでくんない」
「してねぇ」
「……まぁいいけど。その代り牛乳買ってきといてね。明日の分ないからな」
「どこのお母んだ、おまえは」

誰の所為だ、と言わんばかりにジト目で睨まれたが、まぁ俺の所為だろうなと言う自覚はなくはない。
が、この距離感が嵌ってしまうと気持ちが良くて抜けられなくなるから困ってもいる。とんだ泥沼だと、こちらも自覚済みだ。

知り合ってから、早六年。つかず離れずの距離で続けていた悪友の関係だったのが、ルームシェアをするにあたって、四六時中顔を見合わせるようになった。
けれど、少なくとも自分にとって、それは少しも不快ではない。もともと寂しがりの自覚はあるので、誰か家にいて欲しいタイプではあるの。だがそれにしても、多少のストレスはつきものなのがシェアである。
それなのに。と言うと語弊があるかもしれないが、野々宮との生活は、想定していた以上に居心地が良かった。小言だとか、住環境の違いによる諍いが生じたことはもちろんある。けれど、空気が楽なのだ。

だから、それがうっかり今回の事象を招いたのだとするならば。全力でこれ以上悪化しないようにしたいと思うのが、人の常ではなかろうか。

ふらふらと洗面所に辿り着いて、鏡を改めてみた瞬間、さすがに自分でもこれはないと祥平は思った。
元々人相の良い顔ではないかもしれないが、隈と湧き出る負のオーラは、間違いなくヤバい人のそれだった。
そんな自分にドン引いたものの、「よし」とすぐに思い直した。
切り替えが必要な時期に来ている。主に自分の平穏の為に。

「誰か、相手してくんねぇかな、これマジで」

最早、残された道はそこしかない。
上塗りである。
上塗っている時点でどうなんだと一瞬沸き起こりかけた突込みは捨て置いて、祥平は、鏡の中の不健康そうな自分に向かって、もう一度小さく頷いた。


初めての体験だったから、ちょっといろいろ想定外だっただけだ。そうに決まっている。
つまり、いつも通りの自分に戻れば、何の問題もない。そのはずだ。
問題があるとすれば、なぜか野々宮とルームシェアを初めてから三カ月と少し。特定の相手も作らず、今一つ気が乗らないと、そんな言い訳がましい理由で遊び歩いてさえいなかった自分の言動だ。


「……忘れちまえ、とっとと全部」

だから必要なのは、いつもの自分に戻るだけことだけだ。
吐き捨てるようにして、ノズルを捻る。
豪快に顔を洗いながら、何故か脳裏に浮かんだのは、少し前の記憶だった。


少なくとも、祥平にとって「恋愛」は儚いものであるのが常だった。
なにも詩的な表現を気取っているつもりはないのだが、実際問題「恋人関係」が長続きしない星の元に生れ落ちているのだから仕方がないと思うことにしている。

そして続かない恋愛の愚痴は、お互いの嗜好が判明した高校二年生の夏以来、野々宮に吐き出すのが習慣となっていた。


――この、顔面詐欺。

ちなみにこれが野々宮とシェアを始めるより前、当時の恋人に投げ捨てられた渾身の捨て台詞である。
顔面詐欺って。詐欺ってなんだ。
俺が一体何したよ。思ってみたところで野々宮のように上手く回る口を持っていない祥平は黙り込むしかできない。
そして業を煮やした相手が、「もう知らない!」とそっぽ向いて去っていくのだった。
顔面詐欺。俺が一体何をした。
そう零した祥平に、高校時代からの悪友は何とも言えない温い笑みを浮かべるだけで否定してはくれなかった。

「まぁまぁ、祥平、いいとこもあるって、ほら、えーとなんだ。ぱっと出てこないけど、あるよ、うん」

とまったくフォローになってないフォローは一応寄越してくれたけれども。

「祥平は、もっと駄目人間らしい顔してたらよかったのにねぇ」

しみじみと顔面を凝視されながら呟かれたそれは、憐みに満ちている分、雄太くんの捨て台詞より性質が悪い気がしなくもない。

「まぁでもこうやって毎回、俺が愚痴聞いてあげてんだし、いいじゃん。元気だしなって」

けれど、最終的にはそう締めくくってくれた野々宮に祥平は心の底から同意した。
だから。

……だから、こいつだけは恋愛対象にしてはならない。


なんだかんだと自分の面倒を看てくれる悪友をそっと窺い見て、祥平は改めてそう思った、
すぐにいなくなってしまうような、恋愛の対象にだけはいれてはならないと、そう思ってしまったのだ。

お付き合いくださりありがとうございました!