【1】
「あれ? どうした? おまえ、今日ゼミの飲み会だっつってなかった?」
バン、と荒々しくドアが開く音に、野々宮は思わず手元のスマホで時間を確認してしまった。
二十二時。酔い潰れるまでが正しい酒の飲み方だと誤認している阿呆が戻ってくるにしては、やけに早い時間だった。
珍しいな、と。次いでもしかして体調でも悪かったかなと心配になって、自室から顔を出したのが運の尽きである。
「祥平? ……って、どうしたマジでおまえその顔」
仏心を出した自分の判断を呪いたいくらいには、遭遇したくない類のお顔だった。
「ミヤ」
頼むから地獄の果てから返ってきましたみたいな声で人の名前を呼ぶなと言いたい。
「なに、なになに」
思わず半歩腰が引けたが、一切お構いなしに、祥平が距離を詰めてきた。勢い壁に背が当たったところで、逃げ場を立つかの如く、ドンと腕が伸びてきた。
「うわぁ、俺、壁ドン初体験」
へら、と笑ってみたわけだが、相手は悲しいくらいマジ顔のままだった。
なぜだ。
意味が分からないと脳内で盛大に記憶を穿り返していた野々宮に、整いすぎたきらいのある綺麗な唇がぼそりと吐き出した。
「やらせろ」
「……は?」
「一発、やらせろ」
うっかり笑顔のまま固まってしまった。やたらと近い位置にある悪友の顔は、相も変わらず真顔だ。
「なんで!?」
意味が分からない。全くもって意味が分からない。
声が跳ねあがったのも久々の経験だったが、受けた衝撃もなかなかだった。
半分以上不可抗力で見つめ合っていたわけだが、目を逸らしたのは祥平の方が先だった。
「……た」
「え? なに、聞えな……」
「勃たなかったんですけど」
再び地獄の果てからこんにちはみたいな声をひねり出したかと思いきや、そのままずりずりと祥平はずり下がって頭を抱え込んだ。
「なぁ、ちょっと俺、勃たなかったんだけど」
「ちょっといろいろ意味分かんないんだけど、俺」
だがしかし、聞いている内容だけで判断するならば、哀れではある。先ほどの発言の真意は置いておいたとして、思わず肩を叩いてやりたくなるくらいには哀愁が漂っていた。
「だから! 勃たなかったんだっつううの! どうしてくれんの、これ」
「えー? って言うか、なにしてんのおまえ。なんでそんな状況に陥ってんの」
み会じゃなかったっけ? と尋ねてみると、祥平が沈黙した。
相変わらず分かりやすい。それだけで大体は分かってしまったわけだけれども。
そもそも、なんでおまえ俺に隠そうとしてんの。
「ふぅん。つまり俺に内緒でどっかの誰かちゃんとやろうと思ったらできなかったんだ?」
天罰じゃないのと揶揄ってみたら、「おまえに報告する義理はねぇだろ」と可愛くないお答えが返ってきた。
だからと言って、嘘を吐いて誤魔化すようなあれでもないと思うのも、また事実である。
と言うか、嘘を吐こうと思ったその真意についてここぞと問い質してやりたい。
「ちなみに、お相手誰だったの?」
「……」
「まぁ別に誰でもいいけど。っていうかどんなシチュでヤリ損ねたのか知らないけど、不能呼ばわりされなきゃいいね、今後」
確実にされるだろう未来が過ったらしい祥平から、聞いているこっちが鬱になりそうな重苦しい溜息が生み出された。
やめろ。
「って言うか、なんでそこで一発ヤらせろになったわけ」
黒い頭が沈黙を保ち続けている。黙秘か。
「あれ、もしかして祥平、俺とヤッたの忘れられなくて萎えたとか?」
「な、わけねぇだろ!?」
「じゃあなんで?」
へらっと指摘してみた先で、祥平が何とも言えない表情で固まっていた。
と言うか、おまえ、俺とやらかしたの忘れたいんじゃなかったっけ。あんな面白い四カ条作ってまで。
「土岐ちゃんだったんだけど」
「え? あぁ、相手が?」
そら、おまえ、一週間後には間違いなく「不能だ」って噂になってるわ。顔面詐欺の他にもう一つすごい称号つくぞおまえともさすがに言わなかった。武士の情けだ。
「可愛いじゃん。俺の好みじゃん」
「おまえ、本当、あの手のタイプ好きな」
「なのに勃たなかったから問題なんだっつうの! なんかうっかりおまえの顔浮かんだら萎えたとか、どうしてくれんのこれ!?」
「祥平」
やたら凄んだ目で言われているが、その内容はまるであれだ。
「それってなんの告白?」
小首を可愛らしく傾げてみたところ、ボンと音までしそうな勢いで祥平の顔が真っ赤になった。
「じゃ、ねぇし! 違うし! っつかあれなんだって、だからヤらせろ」
「いやその繋がりの意味が俺、わかんない」
「タチとしてのゲシュタルトが崩壊しそうなんだよ、俺は!」
がりがり頭を掻き毟りながら喚く祥平を、生暖かい笑みを浮かべながら見守ってしまった。
なんとなく言いたいことは分かる。と言うか分かってしまった。
付き合いの長さを恨めばいいのか誇ればいいのか悩むところではあるけれども。
「あー……、つまり、結局、おまえあれだよね」
不貞腐れたようにしゃがみ込んだままの祥平に、あわせて座り込む。馬鹿だなぁと思うが、この男に関して言えば、今更でもある。
「土岐ちゃんで無理だったわけだ」
野々宮としては特に好みのタイプではないが、悪友の好みのタイプ、ドンぴしゃであろう小悪魔なかわいらしさを武器にしているネコ專の顔が浮かぶ。
「それでなんで、俺だったらいけそうになるわけ?」
にやにやしているだろう自覚はあるが、俺の顔が浮かんだから萎えたとまで言われちゃしょうがない。
祥平の眉間に皺が寄って、気難しそうな顔に変わる。先ほどまでの喚き具合に比べれば、平常運転内だ。
「……切り替えたかったっつうか、塗り替えたかったっつうか」
うっかり朝ちゅんしたのを忘れたい欲求は、まだ続いていたらしい。
「いや、っつうかそれはあれで別にいいんだけど! さぁ今ここ、みたいなとこでうっかり萎えて、これはヤバいと」
「土岐ちゃん、大激怒じゃなかった、それ」
「激怒すらしてくれなかった」
それはなんというか恐ろしすぎる。つい話をそらしてしまったが、大事なのはそこじゃない。「まぁ案外なんとかなるかもよ」と一切心のこもっていない相槌を打った野々宮にお構いなしに、ぼそりと祥平が吐き出した。
「で、どう考えてもおまえの所為だと思って。……思ってだな。野々宮マジぶん殴る、この野郎と、苛々戻ってきたらだな」
「うん」
「なんか勃ってきたから。今ここじゃないかと」
真顔で言い切った祥平に、余裕こいて浮かべてた笑みがきれいさっぱり抜け落ちた。
ちょっと待て。
「待って。待ってお願い、ちょっと待って、祥平」
「なんだよ?」
「ねぇ冷静に考えてそこ違くない? そうじゃなくて、こう、俺のこと好きなんですって言うところじゃない、そこ」
「――はぁ!? ねぇから、それはない! 死んでもない!」
一瞬の間の後、ものすごい電光石火の勢いで首を振られた。おい、ちょっと待て。
ないない、絶対ない。それはない。と全力で否定を繰り返している空気を読む気がない男の肩に手をぽんと置くと、さすがになにかしらを感知したのか、否定が止んだ。
「ねぇ、祥平」
我ながらびっくりするくらい甘い声が出たなと思ったが、祥平はと言えば、完全に腰が引けていた。
原因は分からないが、何かしらがよろしくないという最低限の機微を察知するセンサーは搭載されていたようである。
「大丈夫」
「な、なにが?」
「うん、大丈夫。祥平、大丈夫。腐れ縁のよしみで俺がちゃんと否定してやるって」
うん、と肩をついでに撫で触ってみたところ、祥平の眼が泳ぎだした。こいつ、本当分かりやすい。
「だからなにを……」
「んー、祥平は不能じゃないよって」
抜け落ちていた笑みを取り戻して、形だけ貼り付けて微笑んでみる。
「だから違うって言ってんだろうが、っつか、あの……ミヤ?」
「でも土岐ちゃんで無理だったんでしょー。俺の所為なんでしょー? 大丈夫。責任とって、ちゃんと感じれるよー、不能じゃないよーって説明してやるから」
だから大丈夫だって、と。にこりと駄目押したのは、間違いなく最後通告である。
眼を盛大に泳がしたまま、「ちょっと待て、ちょっと待て」と往生際悪く逃げ出した阿呆を、廊下に押し倒すのに成功した直後響いたのは「ぎゃあ!」と言う色気のかけらもないそんな悲鳴だった訳だが、これも躾け直す楽しみと言う奴なのかもしれないとポジティブに考えることにした。
お付き合いくださりありがとうございました!