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花の名前 ―滝川万探偵事務所始末記 序―《14》


【14】


一切後ろを振り向かず、桐原の屋敷を出た行平の足は、気が付けば玉響の社へと向かっていた。

吹き付ける吹雪のせいで明瞭でない視界と、慣れない雪道で幾度も足を取られながら、それでも行平は玉響を目指していた。

山の中腹の少しだけ開けた空間。以前来たときは二度とも神野が居た。
信仰の深い、神気の強い場所だと言っていた。

一つの足跡もない大地の上をまっすぐに進む。靴の中に雪が入り込んできても不思議と寒いとも冷たいとも思わなかった。


「なぁ」

縋る様に祠に手を伸ばして、雪の中に膝をつく。
「なぁ」ともう一度行平は懇願する。見えない、自分には関われないのかもしれない超人に対して。

「なぁ、あんた、神様なんだろ? なんで神様なのに子ども攫ってんだよ! なんで神様なのに、苦しめんだよ!」

それは佐和子ではなく、行平自身の慟哭だったのかもしれない。
行平の握り込んだ拳が、どん、と祠の戸を叩いた。神野と確認した時、そこは空洞だった。中には何もいないのか、じゃあどこにならいるのか。
行平には分からなかった。

でも――、こんなことも分からなくて、なにも出来なくて。なのになんで自分はこんな中途半端な力を有しているのか。
戸に打ち当てていた拳を開いて、行平はじっと指先を見つめていた。
何もできないのか、俺は。

「どこかにいるなら、聞いててくれ。俺が……―――」
「神様崩れに、その場の感情でろくでもない契約しない方が良いよ、滝川サン」

祈る様に叫びかけた、まさにそのときだった。
吹雪の中、なぜかその声は明瞭に響く。

「神……野?」

振り向いた先に立っていたのは、墨黒の羽織に身を包んだ神野の姿だった。しゃん、と神野が手にしている錫杖が鳴る。
しゃらり、しゃらりと、曖昧なリズムで響くそれは、いつかのように、この場と共鳴しているかのようだった。

涼やかな音に煮立っていた頭が徐々に冷静になっていく。雪上に着いていた膝が冷たい、と今更ながらに思い当たって、行平はのろのろと立ち上がった。そしてそこでようやく、神野の傍らにいる人影に気が付いた。

「おまえっ、なんでここに……! 神野、おまえ、そいつになにもされてないな!?」

言いさした瞬間。ぼうっと佇んでいた影が弾かれたように叫んで走り出した。
数時間前の余裕のある姿は微塵もない。情けない悲鳴を上げながら、何を思ったのか桐原は行平の元へ走り寄ってくる。

「ホント、お人好しだよねぇ。優しいと言うべきか、馬鹿と言うべきか。俺がそいつごときにやられると、ちょっとでも思ってたの?」

慈愛を含んだような、そんな声だった。
行平がそれを不思議に思うより先に、桐原が行平の前で崩れ落ちた。そして、怯えた瞳で呟いた。

「……化け物」
「あぁ? 化け物?」

眉を眇めた行平に、桐原は後方を指して叫んだ。

「あいつだ! あいつ、化け物じゃねぇか! おまえもグルで、俺を騙したのか!?」

要領を得ない説明に行平は埒が明かない、と視線を神野に戻した。
また神野が何か、したのだろうか。だとしてもこの男の場合、自業自得な気がしないでもないのだが。
強くなる吹雪で視界は明瞭ではない。数メートル先にいる神野の顔もはっきりとしない。けれど、神野の唇がすっと弧を描くのが分かった気がした。

「あんたも化け物じゃない。それを人だけおかしいみたいに言わないでよ」
「神野……? そもそもおまえ、なんでここにいるんだ?」

佐和子のところで就寝していたのではなかったか。良く分からない話を脇に置いて問いかけると、神野が愉しそうに「あぁ」と目を細めた。

「せっかくの滝川サンのご厚意だから素直に受け取って、早寝しようかと思ってたんだけど。寝込み襲われちゃってさぁ」

その台詞に、思わず桐原を睨むと、足元にへたり込んでいた男は「違う!」と焦って首を振る。

「違わないでしょ? 襲い損ねただけで、夜這いに来てくれたのは事実だよねぇ」

冷笑を浮かべた神野を、桐原は見ようとさえしない。完全に怯えていた。

「ってことは、もしかして、一人でうちの馬鹿で真面目な所長様がお山に入っちゃったんじゃないかと思って、こいつわざわざ引きつれて登って来たって訳」

馬鹿だよね、ホント。と神野が微笑う。

「俺なんて適当にこいつに与えてやって、玉響さまとやらに交渉できる機会を貰ったらよかったのに」

なんでそんなことを、言うんだ。
行平の脳内に、先ほどまでとは異なる怒りが走る。なんで、そんなことを言う。そんな、切ないような、泣き出しそうな、そのくせ幸せそうな、そんな瞳で。

「できるわけ、ないだろ」

絞り出した声は、微かに震えていた。

「できるわけないだろうが! そんなこと!」
「そうだったね、お人よしな滝川サンに出来る訳なかった」

違う、そうじゃない。
言いたいのに、言葉は干からびたかのように喉に張り付いたままで。変わらない笑みを浮かべたまま神野が、世間話のように口を開いた。

「そうだ、知ってた? 滝川サン。この男が、ここでなにをしたか。どうやって神隠しを引き起こしたか」
「引き……起こした?」
「そう、引き起こした」

笑みを深めた神野が、一歩一歩こちらに近づいてくる。しゃらりと足音に合わせるように錫杖が鳴る。

「違う! 俺じゃない! なんで俺がそんなことをしなきゃならないんだ!」

喚いた桐原に、「黙れ」と神野が吐き捨てる。

「黙れ、竜一」

それは、命令だった。厳かに響いた言霊に操られるように桐原の声が途切れる。声が出ないのが不思議なのか、桐原は何度も何度も喉を掻き毟る様に荒い息を吐く。
けれど、一切そこから音が生まれることはない。

「神野……?」
「術師に自分の真名教えるなんて、とんだ大間抜けだよね。あぁそれとも知らなかったのかな、自分が妖しの血を引いてることも」
「神野、悪い、ちょっと一つずつ説明してくれ。なにがなんだか……」

俺には分からない。
続けようとした言葉が消えたのは、近づいてくる神野の瞳が金色に見えたからだった。
初めて神野を拾った夜と、同じ色。
戸惑った行平にか、神野がひっそりと自嘲した。

「一つずつ説明なんて聞いてる暇あるの? 滝川サンが今一番知らなきゃならないのは、『神隠し』でしょ?」

ざわり、と空気が揺れた気がした。

お付き合いくださりありがとうございました!