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花の名前 ―滝川万探偵事務所始末記 序―《9》


【9】


――お兄ちゃん。

夢の中で、妹が笑っていた。

――お兄ちゃん、ねぇ。

あのころからずっと変化のない、姿で。
妹の成長は9歳のあの日で止まってしまっている。
赤いランドセルと、母親にせがんで買って貰ったばかりだったピンクのオーバー。
白いセーターにえんじのキュロットスカート。妹が気に入っていた組み合わせだった。グレーのタイツに足下はスニーカー。

もっとかわいい靴が良いとごねて、母親に叱られていた。「そんな靴履いてたら、お友達と遊べないでしょ」

でも、妹は、もう友達と遊び回ることも、走ることもできない。

――お兄ちゃん。

夢の中でも、妹の笑顔はひどく鮮明だった。無邪気にいつも自分の後ろをついて回っていた。

――ねぇ、お兄ちゃん。どうして

不意に、妹の顔が、ぐしゃりと崩れた。


――ねぇ、どうして、あたしを助けてくれなかったの。





「――!」

心臓を押さえて行平は飛び起きた。

「夢、か……」

自身を言い聞かせるように呟いた声は、ひどく掠れていた。外はまだ暗い。行平はまだ激しく鼓動している胸を押さえて、深く息を吐いた。

冬の張りつめた気配のする部屋で、コチコチと時計の針の音がする。枕元に置いていた携帯のライトをつける。時刻は、まだ午前4時を過ぎたばかりだった。
こんな夢を見たのは、久しぶりだった。

「なんで、こんな今更……」

不意に、あんたの感傷に付き合うつもりはない、と冷笑した神野の顔が脳裏をよぎる。
そうなのかも、しれない。
行平は自嘲して、自分に背を向けて丸まっている神野に視線を向ける。
俺の気も知らず、のんきに寝てやがる。半ば八つ当たりのような感情を抱きながら、行平は重い頭を振った。
もう一眠りしようかと布団に潜りかけたそのとき、微かに神野の声が聞こえた気がした。


「……神野?」

そっと呼びかけると、布団からはみ出していた肩がぴくりと揺れた。次いで押し殺した吐息のような声が響く。

「神野」

もう一度、強めに呼びかけながら、行平は神野に這い寄った。枕に押しつけるようにして寝ているせいで、表情は分からなかったが、魘されているようだった。
起こすか起こすまいかと悩んだのは一瞬だった。
一際大きく神野の身体が震えて、身を守るかのように丸まろうとしたのを視認した行平はその肩を掴んでいた。

「神、っ―――!」

瞬間、電流のような衝撃が触れた指先から走って、脳に伝わった。


――……が、逃げられるわけがないんだ

行平の知らない男の声だった。
まだ若い、学制服を着た少年と言っていい年頃の男が、暗い笑みを湛えた瞳で見下ろしてくる。

――俺のものだ、俺の

男の手がゆっくりと自分に向かって伸びてくる。身体はなぜか動かない。逃げられない。逃げられない。


「ッ……神、野! 神野、おい!」

今、視えたのは神野の、記憶だ。
振り切るように頭を振って、行平は神野の肩を掴みなおした。

「神、――呪殺屋!」

強く肩を揺さぶると、ふるっと睫が震えて神野が目を開けた。
焦点が合いきらずぼんやりとしている瞳は、最初にあったあのときのように、金色がかって見えた。

「神……」
「あぁ、……あんたか」

思考回路が戻ってきたのか、神野は白い顔をしているくせに、いつもの軽薄そうな笑みを浮かべてみせた。

「お節介」
「はぁ? おまえ、」
「だから、なにがあってもこっち来んなって言ったのに」

俺はどんな顔をしてしまっていたのか、と行平は口元を押さえた。

「悪い」
「謝るなって、鬱陶しい」

吐き捨てるように言って、神野は額に張り付いていた前髪を後ろにかきやった。

「おまえ、昼間」

その先を言い淀んで行平は視線を落とした。覗き見てしまった神野の過去と、昼間、男に対して不快さを露わにした顔が行平の中に蘇る。

「悪かった」

神野は、不機嫌そうに眉を上げた。

「悪かった、考えなしに言って……」
「謝んなって言わなかったっけ? 良い? 次、謝ったら、あんたの事務所の前にあんたの全裸写真ばらまいてやるから」
「はぁ!? おまえ、そんなもんいつ撮ったんだ!?」

思わず声を荒げてしまってから、行平はまた「やられた」ことに気が付いた。楽しそうに神野が唇に指をあてて「内緒」と嘯く。
これで終わりだと、そう全身で言われている。
おまえは、と行平の胸にふっと重いものが沈み込んでいく。

おまえは夢の中でさえ、自分を抑え込んでいるんだな。助けを求めるための声さえ上げず、押し殺すんだな。

なんとなくそのまま布団にもぐり直す気にもなれず、行平は畳の上で胡坐をかいた。
神野も布団の上で上体を起こしたまま、ぼぉっと窓辺を見ていた。外はまだまだ暗い。長い、冬の夜だ。

「あんたは、なんでこんな時間に目ぇ覚ましてたの?」

行平の方を見るでもなく、ぼそりと呟かれたそれに、行平も俯いたまま応えた。「同じだよ」

「夢を見てた」

「へぇ」と神野が喉を鳴らしたのが分かった。憎たらしいほどに、行平の知っている神野の姿だった。

「滝川サンの妹の夢?」

舌が空ぶったように、動きを止めた。
問い詰めたいと思うのと、踏み込まれたくないと憤る心と、もう一つ。今のこの男に、その話をさせたくないと、何故か行平は思ってしまった。

黙り込んでいると、反応の無さに飽きたのか、神野は「べたべたする」と嫌そうに佐和子が貸してくれた厚手のTシャツの襟首を引っ張った。
そのままおもむろに神野が服を脱ぎだした。ふっと視界の端に、白い肌が見えて、行平は居た堪れない感情を抱いてしまった。

今までだったら持つはずがなかったもので、過去視が影響しているのであれば、神野にとったら、たまらなく失礼な話だろう。

平然を装った行平に気づいているのかいないのか、あとで服貸してねと言い置いて、神野は一人で布団の中に再び潜り込んでいった。

その最中、神野の腰骨に、引きつった火傷の跡のようなものが見えた気がした。

お付き合いくださりありがとうございました!