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隣までの距離

城崎真白は悩んでいた。
目の前には最愛の妹がプレゼントしてくれた「男同士のHow to SEX」が鎮座している。

何をどう想像してこれを兄に寄越してくれたのか問い詰めたいような気がする半分。素知らぬ顔ですっとぼけたい気が半分だ。
次帰省したとき俺はどんな顔したらいいんだ。と頭を抱えたいのも事実だが、今の悩みの論点はそこじゃない。


「絶対、痛い」

ぼそりと真白は呟いた。絶対痛い。間違いない。絶対痛い。
だがしかし、この間カッコつけたのは、自分である。
そして論点はそこでもない。

「っつか、あいつ、結局言わねぇからな……」

そうなのである。
憮然と吐き出して、勢い本を跳ね飛ばしてしまった。「やばい」と即座に拾いに行ったのは、愛しの妹からのプレゼントだからである。そこに深い意味はない。
我ながらに合わないと思いながらも、勝手に深い溜息ばかり零れていく。

慎吾の隣にいるのは楽だ。けれどそれは、自分を優先してくれるから、なわけじゃない。
当たり前だ。その当たり前を、慎吾も分かっていてくれてるとは思う。
だから、なんだかんだと口では言いながらも、慎吾自身より真白を優先しようとしてくれるのは、性分なんだろうとも思っている。
そう言う性格なのも知っている。要領がいいのは、周りをよく見ているからだ。人が集まってくるのは、チャラチャラしているからだけじゃなくて、良い奴だからだ。

全部、知っているけれど。けれどもだ。

「俺にくらい、甘えてみてもいいだろ、馬鹿」

あの、夜みたいに。本音をさらして。


【隣までの距離】


この関係に落ち着く前の話だ。夢見荘に越してくる前だから、高校生だったころと思う。

一度、真白は言ったことがある。「おまえ、もっと駄目になりゃいいのに」
慎吾は、表情を微妙に止めた後、すぐにへらりと笑ってみせた。いつもの顔だ。そして間違いなく真白の真意を理解したうえで、流そうとしていた。
「俺はどっかの誰かさんとは違うからねぇ」と茶化してきたのに、真白にしては珍しいことに割と本気で腹が立った。

だから「そうじゃねぇだろ」とすげなく返した声は、やたら低い音になっていて。
その反応に、慎吾は困ったように首を傾げる。そして取り成すようにもう一度微笑んだ。

「あー、うん。じゃあ、しろが大人になったらね」

なんだそれ、と思ったものの、それ以上を言い返せなかったのは、自分が大概駄目な自覚があったからだ。
でも、それだってもう2、3年前の話になる。大学生になった。酒が飲めるようになった。
年齢上の区切りが大人になった。
慎吾が言ったのがそう言う意味ではないと、分かってはいる。

でも。あの時と今は、関係が違う。


ちゅっと、軽いリップ音を立てて唇が離れていく。自分の唇はもっとざらざらしている感じがするのに、慎吾のはなぜか柔らかい感じがする。
触れ方の違いなのかもしれない。
そんなことを考えていると、唇が微笑を刻んだ。

「――しろ?」

甘い声だと思う。けれどそのトーンを笑えない程度には慣れてしまったし、安心できるのは変わらない。

「べつに、なんでもないけど」
「そぉ? まぁでも、今日はこのくらいにしとこっか」

ごく自然に言って、慎吾の手がふわりと頭を撫でていく。そしてそのままほんの少し、距離が開く。恋人の距離じゃない、幼馴染みの距離だ。
なんでだよと以前聞いてみた時は、きょとんとした顔で「切り替えって大事じゃない?」と返されて終わった。

なんだそれ。

不貞腐れた顔をしたのを視とがめられたのか、
「だってさぁ、しろにとっての俺って、幼馴染みって言うか兄弟って言うか親友って言うか、つまりそう言うもんだったでしょ。今の関係どうのこうのは置いておいて。今までの距離感、いきなり全部つっぱねられるほど、器用じゃないでしょ、おまえ」
との解説的なおまけまでついてきた。

そりゃ最初の頃はそうだったけれども。けれども、である。

「ちゃんと言えよ、おまえ」

ぼそりと念押しすると、慎吾は「それ、最近のしろのブームだよね、最早」と肩をすくめた。

「うんでも、ありがとね。心配してくれて」
「そういうんじゃなくて、」
「しろがさぁ、こうやって言ってくれたり、キスしてくれたりしてる時点ですっごい進歩じゃん。俺、嬉しいもん」

へらりと。さすがの真白でも「中学生か」と突っ込みたいような内容で、けれど本当に嬉しそうに慎吾が笑ったものだから、真白は言葉を呑んでしまった。
強く言えないのは、「中学生か」と突っ込まざるを得ないだろうレベルが自分のレベルだと気づいているからだ。

恋人、としての距離感はこそばゆく思う反面、戸惑う部分がまだ確かにある。
慣れてきた、と言うのも本当だ。でもそれと同じくらい、困惑することがあるのもまた真実で、そして慎吾は知っている。
慎吾の手が離れるたび、寂しいと思う気持ちとどこか進まなくてほっとする気持ちが同居していることを。


**

ふっと耳に入った気がした声に、のんびり構内を歩いていた足を止めて、真白は視線を手繰らせた。
サークルの部室が立ち並ぶ部室棟の出入り口の傍らに複数人の輪が出来ていた。
その中心によく見知ったピンクがかった茶髪が揺れている。

あぁまたか、とある種見慣れた光景に、真白は止まっていた歩みを再開させる。特に急いでいる用事があるわけではないが、学内でまで構われたいわけではない。
慎吾が顔を上げたのが背けた視界の片隅で見えたが、たぶん、追いかけてまでは来ない。
それが寂しいわけでも、たぶんない。
学内でのその距離感を適度だと昔から思っているのは、お互い様だし、と何故か今更なことを再認させるかのごとく、胸中で思い返していたら、

「あ」

目の前から、あまり会いたくはなかった相手が歩いてきていた。

「げ、久々に見たー。引きこもってなかったんだね」

今、「げっ」って言ったぞ。と思ったが、たぶん表情に出てないだけで、似たようなことを思っていた自覚はあったのでスルーする。
そういや同じ大学だった。

「うわー、さすが慎吾。いつ見ても囲まれちゃってるねー。いつも一人で引きこもってる誰かさんとは大違い」
「ほっとけ」
「別に俺はどうでもいいんだけどね。ふぅん、そっかぁ」

意味深な笑みを浮かべながら、南が上目づかいで見つめてくる。何故なのか分からないが、南を見ていると、苛々する。
普段、他人に対してそんな風に思うことなんて、めったにないはずなのに、と溜息を吐きたい気分で、真白はゆるりと首を振った。

「俺、もう帰るんだけど」

別になんの用事もないけれどもだ。家が昔から真白は好きだ。何の気兼ねもなく、気の知れた幼馴染みと妹と過ごせる場所。それは今も大きくは変わらない。

「そっかぁ、うん。ちびちゃんも成長してるんだね。良いことなんじゃない? いつまでも慎吾もお子ちゃまのお守りじゃつまんないだろうし」
「どういう意味だよ、それ」

放っておけばいい。乗せられる方が間違っている。そう分かっているのに、口からは尖った声が飛び出していた。
こんな自分、らしくないと心底思う。面倒くさい。なのに、南は満足そうに嗤っている。

「どうせ、あんたのことだから、慎吾に我慢させてんじゃないのかなぁって。――あ、ごめん、当たりだった? でもあんま勿体ぶんない方が良いと思うけど?」

苛立ちが次々と胸の内から浮き上がってくる。その原因を一言で言うならば、これだろうと真白は気が付いている。だから、余計、嫌だと思った。

「関係ないだろ、おまえに」
「んー、まぁ、関係はないかもだけど。知らない仲じゃないしさぁ、慎吾、可愛そうだなって思って」
「……だったらなんだよ」
「いつまでも慎吾が自分にだけは甘いって余裕こいてて、捨てられても知らないよって、話」

忠告してあげてるんだから感謝してよ、と嫣然と南が微笑む。
言いたいことを言いきって満足したのか、追い抜きざまに軽く真白の肩を叩いて立ち去って行った。
その後ろ姿を見るでもなく、真白はいつの間にか握りしめていた自身の手に視線を落とす。
分かっている。分かっているから、厄介なのだ。でも。

「入ってくんな」

ぼそりと口から漏れ出た台詞に、真白はすとんと得心した。そうだ、入ってくるな。
俺とあいつの間に。俺よりもあいつを知っているような口ぶりで話すな。何も知らない癖に。

そこまで思って、真白はふっと眼をそむけていた事実に思い当たる。
自分が知らなくて、南が知っていること。
それは、たぶん、たった一つだった。

お付き合いくださりありがとうございました!