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隣が痴話げんか

「あ」
「……あ」
「は?」


城崎真白は、基本、寒さに弱い。

10分丈のヒートテックは最早家宝の勢いで手放せないし、パッチも絶対ズボンの下に仕込みたい。
だからこの時期、徒歩5分で辿り着くはずのバイト先のコンビニまで行くのさえ一苦労なのだった。まず第一に、部屋から出る決心が中々つかない。

だがしかし、真白は今現在、ぎりぎりまで出たくないと無駄な抵抗をしていた自分の行動を、果てしなく悔やんでいた。


【隣が痴話げんか】


ガチャリと家を出てドアノブに鍵をかけた瞬間、古い階段をずしずし上ってくる音がした。
次いで、生まれた頃から知ってるような声が耳に入った。

うげ、と真白が思った時には、時すでに遅しと言うやつで、物の見事にばったり、慎吾と、おそらく奴のセフレであろう男と遭遇してしまったのだった。

そして冒頭の三竦みに至るのだけども。



「どしたの、しろ。今日バイトじゃなかったっけ?」

いち早くへらりと場を取り繕ったのは、例によって例のごとく、人当たりだけは良いチャラ男だった。

「いや、バイトはバイトなんだけど」ともごもご口を動かしながら、真白はふいっと目を逸らした。
何が悲しくて幼馴染み(男)の腕に縋る男の姿を見なきゃならんのだ。おまけになんで俺が、そんな恋敵を見るような目つきで睨まれないといかんのだ。

「どうせぎりぎりまで粘ってたんでしょ。早く行かないと遅刻するよ」

柔らかく口元を緩めて手を振った慎吾の所為で、さらにもう一方からの視線がきつくなった。理不尽だ。が、いちいち反応するのは正直しんどい。

結果、真白は「はいはい」と適当な返事を残して背中を向けた。
外付けの階段を下りる瞬間が一番風当たりがきつい。一瞬、慎吾の背を壁にしたかったと思ったが、今この状態じゃ無理な話だ。

なんで俺の方が気を使わなきゃいけないんだ、と地味に怒りを溜め込みつつ、バイト先のコンビニへ真白は向かった。
時間を取られたなと携帯で確認すると時刻は18時を指していた。バイトの交代時間は18時。


「……まぁ、いいだろ」

ちょっとくらい。城崎真白の頭に、「急いで走る」と言う選択肢は存在していなかった。


***


雑誌コーナーの一角で、立ち読みどころか座り読みを決め込んだまま、真白は店内にかかっている時計に目を向けた。23時。勤務時間は22時に終了している。

だがしかし。

「帰りたくねぇ……」

ぼそりと毒づいて、真白は裏表紙が大変残念なことになっているジャンプをラックに戻した。

「帰りたくねぇって、おまえ、いっつも速攻でタイムカード切って帰ってんじゃん」

一人も客の居ない店内で無意味にはたきを振り回していた大悟が、暗に「いつまでいるんだ」と首を傾げた。真白と交代でシフトに入っている同い年の男だ。

「いや、まぁそうなんだけど」
「尻から根が生えるぞ。おまえただでさえ、あれなのに」
「……古い言い回し知ってんな」
「俺のばあちゃんが言ってた」

けろりと言われて、真白は長嘆息した。俺だってとっとと帰って布団に潜り込みたいっつうの。
でもなんか。

「なんかこう、帰りたくねぇんだよ、果てしなく」

帰った瞬間、薄い壁を飛び超えてあの声が聞こえてきたら嫌だとか、また会ったら面倒くさいとか。あとなんかいろんなもやもやした「なんか嫌」な気分だとか。
そんな言葉にできないあれやこれを溜め込んで、駄目人間は今度はマガジンに手を伸ばす。
はぁともう一度溜息を吐き出した真白の相手をするのに飽きたらしい薄情者は、「さー仕事すっか」とレジに戻って行った。
12月に突入した途端、流れ出すようになった陽気なクリスマスソングは、どちらかと言わなくとも気分を下降させる。

……クリスマスとか、またあいつ、男連れ込んで一日中なんやかんやする気じゃねぇだろうな。

げんなり地に沈み込みそうな感情を体現するかのように、冷たい風が吹き込んできた。
久しぶりに客が入店したらしい。マジ寒い、と売り物の雑誌に顔を埋めたところで、こつんと誰かの脚が当たった。

「慎吾」

珍しくどことなく不機嫌そうな表情で見下ろしてきていたのは、帰りたくない原因の隣人だった。

「なにしてんの、しろ」
「読書」

誌面に視線を戻してぼそりと呟く。束の間の沈黙の後、落ちてきたのは優しい苦笑だった。
「コンビニで座り込んでするもんじゃないよねぇ」といつもの声で言いながら、よいしょと慎吾もしゃがんで雑誌を覗き込んできた。
視界の端にちらちらとピンクっぽい毛先が映り込む。

「ってかこれ、マガジンじゃん。しろ、そんな好きくなくなかったっけ? なんか面白いのあった?」
「いや、別に。っつか、おまえ」
「んー? なにー?」
「あいつは?」

今日はあいつとまた朝方までヤッてんのじゃなかったのか。視線を合わさないまま問いかけると、「あぁ」と合点がいった声を慎吾が出した。

「なんだ。それでしろ、ここで拗ねてたの?」
「いや、拗ねてねぇから。つか、また隣でぎゃんぎゃんヤッてたらウザいって思ってただけだから」
「それでこんな時間なのに、ぐずぐずしてましたって?」

からかうように跳ね上がった語尾に、真白は隣を憮然と睨みつけたのだが。

「……なんでおまえが機嫌悪いわけ」

意味が分からない。怒りたいのは俺で間違ってないはずだ。
頬杖を突いて目を眇めたまま、「別に?」と口元だけで慎吾はへらっと笑っていたけれど。
真白は無言で雑誌を閉じた。いつものへらへらした笑い方も大概イラッとくるが、この作り笑いはもっと嫌いだ。
慎吾はいつも、言いたいことを口にしない。全部笑って終わらせようとする。
黙り込んだままでいると、「あのな」と溜息混じりに慎吾が言葉を吐いた。

「真白」

滅多にしなくなった呼び方で名前を呼んで、慎吾がぺちんと額を叩いた。指先が冷たい。

「なにす……」
「心配」
「は?」
「するでしょ。いつもおまえ、本当に最後まで勤務してんのかって勢いで、10時5分にはベッドにダイブしてるくせに。それが11時回っても帰ってこなかったら」

想像と180度違ったそれに、思わず間抜けに口が開いた。小さく噴き出した慎吾に、誤魔化すように真白はぼそぼそと「おまえは俺の母親かなんかか」と言い返してみたけれど、「似たようなもんじゃないの」と笑われてしまうと、ぐうの音も出なかった。

「ちなみに、今日はもういないから」
「それで?」
「だから帰りましょっての。いつまで拗ねてんの、しろは」

ほらほらと追い立てるように引き上げられて、そのまま並んで店を出る。鈍い自動ドアの閉まる音と共に、「っしたー」と言うやる気のかけらもない大悟の声が背中に響いた。

っつうかまた呼び方、犬みたいなのに戻ってんだけど。こいつ、昔はちゃんと俺のこと真白って呼んでなかったか?
いつからこんなになったんだっけ、と考えて、でも結局まぁいいかと真白は頷いた。

「なに一人で頷いてんの?」
「いや、おまえ地味に面倒見良いよな」
「会話繋がってないんだけど、なんでまたそれ?」

顔を覗き込んできた慎吾に、真白はゆるく首を振った。

「なんつうか、昔から俺が外でぼーっとしてると、おまえが迎えにくる」

親に怒られたときとか。なんとなく外でだらだらとしていて、家に帰りたくなくなった時だとか。
そんなとき、いつも「ほら帰るよ」と手を差しのばしてくれるのは、この幼馴染みだった。
昔から変わらない。変わらないんなら、まぁいいかと思う。
褒めたつもりだったのだが、慎吾は微妙に苦い顔をした。

「いや、べつに、誰の面倒でも看てるわけじゃないよ、俺」

「へぇ」とだけ真白は応えた。
それ以上会話を続けたところで、慎吾はその理由は言わない。
なんとなくそれが分かってしまうのも、なんだかんだと20年近くずっと一緒にいるからなのだろうか。

なのに訳分かんねぇなと真白は思った。
こいつは幼馴染みと言うだけで、俺の面倒を看ているのか。
そしていつまで看続けるつもりなのか。
かなみのことを好きなんじゃないかと思ったけれども、じゃあなんで男と寝るのか。

「訳分かんねぇな、おまえ」

うっかり零れ落ちたそれに、慎吾は理不尽極まりないと言う顔で、

「俺はおまえが訳分かんない」

と言った。



【END】

お付き合いくださりありがとうございました!