「は? 意味わかんないんだけど」
険のある顔でそう言われて、最初に慎吾が思ったのは、なんか最近この手の台詞よく聞くなぁ、だった。
場所は大学の最寄駅のドトール。目の前には、大変ご不満そうな元(になりかけてる)セフレ。
面倒くせぇなぁと言う心境は微塵も滲ませないまま、慎吾はへらりと口端を上げた。
「だからもう止めないって。それにほらあれだったじゃん、お互い後腐れなく気が向いた時にって話でやってたんじゃなかったっけ」
3ヶ月ほど前に、確か。そう続けると、セフレもとい南は唇を尖らせた。
「俺、止めたくない」
「そう言われたって、そんな俺相手にごねないでよ、南らしくない」
「だってっ……」
「南だってそれで納得してたんだし、付き合ってたわけでもないんだし。だから、さ」
ここまで押されて、それでも縋ってこれるほど、南のプライドはお安くない。
短い付き合いの中でも、なんとなくそれは分かる。自分に自信があるんだなぁと微笑ましく思えなくもないんだけども。
案の定、南は不満そうな色を残しつつも、黙ってコーヒーを口に含んだ。
「じゃあ別にもういいけど。……あの子の所為?」
「うん? どの子のこと?」
「分かってるくせに。慎吾の隣の。あのぼーっとした何考えてんのか分かんない顔の子のことだっつうの」
苛立ちを文字通り噛み殺しているのか、南が口に含んでいる紙コップの淵がひどいことになってきている。まぁ、確かに割と無表情だよなぁと慎吾は思った。
俺は何考えてんのか、大体分かるけど。
「慎吾、趣味悪くない? 俺よりあっちがいいとか、マジで信じらんない。大体あっちだってさぁ、」
延々と続きそうだったそれを「南」と呼びかけることで遮って、慎吾は再度笑いかけた。
「俺と南の話だったじゃん。脱線しすぎ」
あくまでも慎吾としては笑っているつもりなのだったが、南の口元を微妙に引きつらせてしまった。
けれどそれも一瞬で、すぐに「そうだよね」と取り繕ったように南は微笑む。その手の男が見たら、蠱惑的だと表現されそうな笑み。
だけれども、だ。
慎吾は内心で溜息を長々と吐き出した。それがなんとも思えないんだから、仕方がない。
場を和やかに戻すための世間話に興じつつ、早く帰りたいなぁ、と、どこまでも誠意のないことをチャラ男は考えていた。
夢見荘に帰ってしまえば、すぐそばに真白の気配がある。
それはなんというか、慎吾にとって、抗いがたい誘惑なのだった。
【お隣さんの眠れない夜】
結局、暗い外付けの階段を足音を忍ばせて上った慎吾が、自室のノブを回したのは日付が変わるころになってからだった。
隣の部屋からは、もうあまり物音は聞こえてこなくなっていた。幼いころから変わらず早寝の幼馴染みは、もう眠りの世界らしい。
だからどこのガキだよ、とひっそり笑みを漏らしつつ、適当にシャワーだけ浴びて、布団に潜り込む。
多少寒いと思わなくもないが、基本、慎吾は一人だと暖房を点けようとは思わない。
朝、真白の部屋に行くと、ついつい寒がってるのも可哀そうかなぁ、と、点けてやってしまうのだけど。
布団の中でスマホを触っていたら、壁の向こう側で何やら動いている気配がした。
あれ、珍しい、と慎吾は思った。真白は昔から、一度寝付くと多少の物音じゃ目覚めない。
小学校の低学年だった頃、慎吾と城崎兄妹とで昼寝をしていた際に結構の地震があった時も、真白はびくともしなかった。
慎吾は揺れで普通に起きたし、かなみも驚いて泣いていた。
その最中ずっと爆睡していたくせに、しばらくして最愛の妹の泣き声で目を覚ました幼馴染みの第一声は、「なに泣かせてんだ、こら」だった。
いや、俺が慰めてたんだけど、と大変理不尽な気持ちになったことまで思い出して苦笑する。
そこまで記憶力が良いと言うわけでもないと思うのだけれど、たまに自分でもびっくりするぐらい、慎吾は真白とのエピソードに関してだけは鮮明に覚えている。
小さな音がして、玄関のドアが開いた。狭い1Rだから、ベッドに寝転んだままでも見える。
外灯の灯りが外気とともに隙間から入り込んでくる。寒そうな素足が見えて、早く入ってきたらいいのにと思う。
けれど、影はなかなかその場から動かなかった。
しょうがないなぁ、と、慎吾は「しろ」と玄関に声をかける。
影がゆっくり揺れて近づいてくる。フローリングの軋む音が止まって、慎吾は寝ころんだまま視線だけを上げた。
「どうしたの? 寝れない?」
真白に限ってそれはないだろうと思いつつも、問いかけてみる。南に「何考えているのか分からない」と評された無表情で、黙り込んだまま見下ろしてくる。
何か思うところがあるらしいと慎吾は判断した。けれど、その内容までは分からない。
どうしたもんかなぁと内心頭を抱えていると、
「寒いから」
とだけぼそりと呟いて、真白が布団に潜り込んできた。
おまえ、その格好でいったん外出て俺の家くる方が寒かったでしょうよとは言わない。
今日も我慢の夜だなぁと苦笑しながら、慎吾はおいでとスペースを広げてやった。ひやりと冷たい空気が真白と一緒に入り込んでくる。
落ち着きどころを探してもぞもぞと蠢いていた真白の身体が、慎吾の左半身にすり寄って動きを止めた。
ちょっといろんな意味で止めて欲しいなぁ、と思わないでもなかったが、冷えた指先が暖を求めて接触してきていることは明らかで。
だったらしょうがないか、と、あっさりと慎吾は諦めた。我ながら甘いなぁと感じてしまったのは、否定できそうになかったのだけれども。
「なぁ」と布団の中から籠った声がした。
「なに? っつか煩かった、俺?」
あれくらいの物音で真白が起きるとか、想定外過ぎだ。
「それ気にするくらいなら、ヤッてるときの声気にしろよ」
「あー、だよねぇ」
「だよねぇ」じゃねぇよ、と真白がぼやいている声が、直接骨に響いている感じがした。
「じゃあ、どうしたの?」
再度尋ねてみたそれに、真白からの返事はなかった。まさかもう寝たのかと疑うに至ったころ、寝言のような曖昧な調子で名前を呼ばれた。
「とっとと帰って来いよ、あほ慎吾」
「……なに? 俺が帰ってくんの待ってたの、もしかして」
「違うっつうの。でも……なんか、あれなんだよ。あほ。ムカつく」
なにがどうあれなんだよ、と問い質したいような気もしたが、寝たふりを決め込んだのか、それとも本気で寝たのか、緩やかな呼吸のリズムだけが伝わってきて、慎吾は小さく笑った。
昔、真白の妹に言われたことがある。
「慎吾くんさぁ、お兄ちゃんに振られるって少しも思ってないでしょ」と。
なんの衒いもなく言われたそれに、慎吾はどう答えたかまでは覚えていない。けれど恐らく「そうだねぇ」と受け流して終わらせたのだろう。
けれど実際、その通りだと思う。
物心ついたころから、ずっとそばにあるような気さえする体温を感じながら、慎吾はそんなことを思い返していた。
なんだか当たり前の様にかなちゃんに、俺が真白を好きだって認識されてるのも、いかがなもんかなと思わなくもないんだけども。
頭の先まですっぽり布団の中に潜り込んでいるのに、さすがにこれは寝苦しくならないか、と布団を少し下げてやる。その結果、自分の肩がはみ出すことになったのは、この際置いておくことにしよう。
露わになった寝顔は、本当に幼いころから変わっていない感じがする。
なのにこれがいいんだなぁ、と、半ば諦めの境地で慎吾は思った。
いつからそう言う意味で特別になったんだったかなぁ、と考えてみても、明確な線引きはいつも見出せない。
急に布団から抜け出させられて寒かったのか、真白がむずかる様に頬を寄せてきた。
それに触れたいと願ってしまった指先を握りこんで、慎吾はそっと真白に背を向けた。
真白は自分のことをそれなりに好きだろう、と慎吾は知っている。
例えばそれは、自分が恋愛感情的な意味合いで好きだ、と、そう告げたところで、嫌われないだろう程度には。
「今までみたいにはいられない」そう言ったとしたら、たぶん真白は自分の好意を受け取るだろうとも慎吾は思っている。
自分のことをそう言う意味で好きでなくても、自分が隣にいない状態の方が嫌だから。だから真白は受け入れる。
「……でもそれって、恋愛じゃねぇよなぁ」
少なくとも、対等なそれじゃない。
だから、言いたくない。知られたくないし、関係を変えたくない。
言うとしたら、それは、真白が少しでも自然にそう言う感情を持てたときだと、もうずっと前から決めている。
それでも、どうしようもなく揺らぎそうにもなるときもあるけれど。
背中に感じる寝息のリズムに合わせて、眠れないだろうなぁと分かっていつつも、慎吾は目を閉じた。
訪れない睡魔を待ちながら、慎吾は初めてこの家で連れ込んだ男とセックスをした日のことを、なぜか思い出していた。
この壁の薄い夢見荘でそんなことをしようと思ったきっかけは、ちょっとでも真白が自分を意識してくれたらいいなぁ、なんて。我ながら計算高いと言うか、せこいと言うか、な、そんな感情からだった。
結果からすると、心底どうでもよさそうな真白に、「マジ、うるさかった」とぼそっと言われただけに終わってしまったのだけれども。
それはそれでショックだったが、それよりも衝撃だったことがある。
壁越しに真白がいると分かっていながら興じたセックスに、どうしようもなく興奮してしまった。目の前の相手の身体よりも、真白が聞いているかもしれないと想像するとたまらなかった。
いろんな意味で終わってんなぁ、俺。そう思うと同時に、あぁ好きなんだなぁ、真白とこういうことしたいんだなぁ、と多少の罪悪感とともに再認してしまったのも、その日だった。
あのころから関係が進歩しているのかと言われると、相変わらずな気がするのだけれど。
やってらんねぇと何度思っても、やめようと思ったことは一度もないんだよなぁ、と、眠れない暗闇の中で、慎吾はそんなとりとめもないことを考え続けていた。
【END】
お付き合いくださりありがとうございました!