http://yzkak.namidaame.com/ [Honey**]


隣も大騒動

「お、ちび」

そろそろ講義に出ないと必修の単位がまずい。さすがにそれはちょっとよろしくないと判断した真白は、水曜日にして今週初めて大学に行ってきた。
家を出るのが面倒くさいだけであって、行ってしまえば別に嫌ではないのだけども。
誰へともなく内心で言い訳しながら、夢見荘の古い階段を上りきったところで、大変気にくわない呼び名が降ってきた。

「ちびじゃねぇよ」

とりあえずそう言い返す。慎吾やおまえが無駄にでかいだけだ。……たぶん。

「おー、じゃあ、えーとなんだっけ」
「城崎」
「だよなぁ、覚えてた、覚えてた」

城崎だよなぁ、なんかどっかの温泉と一緒の名前だと思ってたんだ、と。全く覚えていなさそうだった台詞を悪気なく吐かれたが、真白は黙殺した。
覚えてないのは、おまえが毎回人を見るたびに「ちび」「ちび」と連呼するからじゃねぇか。


【隣も大騒動】


築20年を優に超える夢見荘は2階建ての木造ハイツだ。その202が真白の部屋で、203が慎吾。で、逆隣りの201がこの男の部屋なのだけども。

一向にドアの前から動こうとしないその男、野々村はへらりと笑った。
なんだかろくでもないことを考えていそうな気がする。面倒臭い。そう思うと同時にでも当たるんだろうなぁ、と、半ば悟りの境地で真白は思った。

20年来の幼馴染からは「しろの危機察知能力」と揶揄されているが、昔から自分の嫌な予感はよく当たる。最愛の妹の弁は「お兄ちゃんの面倒くさいこと回避したいって願望が強すぎるから無駄に鋭くなるんだよ」だったが。

が、分かったところで回避できないのだから、はっきり言って、無意味すぎる。

「……なんか用?」

無視しきれずにそう訊くと、待ってましたとばかりに、野々村が犬っぽい愛嬌のある顔を崩した。髪の毛も茶色いから、どことなく大型犬っぽい。

「城崎ちゃんさぁ、今日も慎吾飯なんだろー。俺、今月金欠なんだよねー、来月奢ってやるからさぁ、混ぜてくんね?」
「あんたにそれ言われて、奢ってもらった記憶ねぇんだけど」

確か夏くらいにも同じようなことを、何回か言われた気がするのだけども。
おまけに急に3人分となると面倒くさいのか、その場は人当たり良く笑っていたくせに、終わってから慎吾の機嫌は悪かった。
だから嫌だ。疲れる。そう首を振ると、「えぇー、ひでぇ!」と大げさに抱き着かれた。重い。

「じゃあ、またな」と特に何の感慨もなく、真白は大型犬を振り払って、自室に籠ろうとしたのだが。

「城崎ちゃん。教育言論のレポート、俺の去年のデータあげよっか」

その囁きに、真白はドアノブを回しかけていた手を止めた。

「あの先生、厳しいっしょ、結構。出席日数も割と重視してるしさぁ、どうせ城崎ちゃん、さぼってんっしょ。その分だと小テスト何回か受け損ねてない?」
「……損ねてる」

久しぶりに出席したと言うに、出会った友人の話によると小テストは前回の講義終わりに行われていたらしい。あの教授は何の前触れもなく、いきなり小テストを実施するから性質が悪い。

「だろー? ってことはさぁ、レポートの評価悪かったら終わりじゃん。俺、去年、レポートA+だったよー」

機嫌の悪い慎吾と、必修単位。
真白の振り子は、地味な葛藤の下、単位獲得に傾いた。

まぁ、いいだろ、早めに連絡しといたら。2人分の材料買って帰ってきて実は3人だったってのが問題なんだよな、たぶん。
真白は無言でドアを開け放った。入るなら入れ。

「いやぁ、良い隣人がいて良かったねぇ、お互い」

全くだ、と、どちらに対しても思いながら、真白は連絡を入れるべく携帯を取り出した。
できることなら、機嫌が良いといいんだけれどもと思っていた電話は2コールで繋がった。
いつも母親から呆れ顔で「真白に電話するより、慎吾くんに電話した方がよっぽど早い」と言われるが、一切否定できない。真白は電話も無精で、慎吾はどこまでもマメだ。

「なに? どうしたのー、しろが電話とか珍しい」

お腹でも壊した? と、ご機嫌に軽口を叩いてくる幼馴染みに、真白はひっそりほっとした。
背後から聞こえてくる雑音から察するに、奴はまだスーパーだ。

「なぁ、今日、飯なに?」
「いや、まだ決めてないけど。なんか食べたいのあるの?」
「いやなんでもいいんだけど。野々村が食いたいって」

瞬間、それまで軽快だった返答が止んだ。通話先からは、景気のいいセールの音楽が鳴り続けている。

「慎吾?」
「あー……ごめん、うるさくて聞こえなかった。で、なに? 野々村さん、いるの?」

どことなく慎吾のテンションが下がったように感じるのは、果たして気のせいなのか。
多少気にかかったものの、背に代えられる腹がない。真白は結構本気で必修単位がヤバかった。
「うん」と頷くと、微妙なため息が電波に乗って飛んできた。

「りょーかい。鍋でいい? って言っといて」

慎吾にしては珍しく、何の余韻もなくぶつりと通話が切れた。

あれ、もしかしてなんか怒ってんのか。
真白は先ほどの会話を思い返してみた。だが、なぜだ。


「城崎ちゃーん、慎吾なんだってー?」
「え、あぁ、……鍋」
「あぁ、いいねー。お鍋。寒いもんねー」

っつうか慎吾はマメだねー、ホントにねー、と、暢気に笑っている野々村の顔を見ているうちに、真白はまぁいいか、と思考を放棄した。
そのままこてんと机に頭を預けると、さらにどうでもよくなった。

集中して一つのことを考えられないのは、もうずっと昔からだ。
これが駄目なんだろうなぁとたまに思うが、それを慎吾が許すからより駄目になってるんだよなぁ、と、どうしようもない責任転嫁を駄目人間は図っていた。

「でもさぁ、おまえら2人、いっつもつるんでるけど、彼女とかないの? あ、城崎ちゃんはないか。甲斐性なさそうだもんね」
「ほっとけ」

甲斐性とか、自分には無縁の産物すぎる。そもそもが、彼女作っていちいち気を遣うのとか、考えただけで面倒くさい。

「でもさぁ、ちびにいなくても慎吾はいるだろ」

問重ねられて、真白は大儀そうに顔を上げた。そして首を横に振る。
セフレはいるが、特定のそれはたぶんない。
あれでもそう言えば、と真白は思った。昔から人当たりが良くてついでに顔もいい慎吾はモテてはいたが、特定の彼女をつくっていたのを見たことはない気がする。

「マジで? あぁ……でも、そっかぁ、そうだよなぁ」
「なにがだ?」
「いやだって、彼女とかいたらさ、こんな律儀におまえの面倒看てねぇだろ。つか、おまえの面倒看てるから、作れないんじゃね?」

言われたそれを脳内で咀嚼して、あれ? と再度、真白は頭を傾げた。
もしかして、それで地味に機嫌悪いのか、あいつ。
いい加減面倒になってきた、とか。彼女か彼氏か知らんが、特定の奴をつくりたくなってきて、でも無駄に責任感だけはあるから、今更、俺の親との約束を反故にもできないとか、何とか。

……作りたいのか。

特定の、特別な奴を。
それで、今の俺のこれが無くなんのか。

「え? なに、ちび。もしかして気にした?」

微妙に焦った調子になった野々村の台詞に、真白は「べつに」とそっけなく返答した。

「ならいいけどさぁ、なんか珍しい真面目な顔してたよー。おまえ、日がな一日ぼーっとした顔してんのに」

それはそれで、大変失礼なことを言われている気がしないでもないのだが。
言い返してやろうかと思った瞬間、玄関が開いた音がして、真白はそちらを振り返った。

「ただいま、しろ。野々村さん、久々っすねー」

電話での地味な不機嫌さは、こちらの勘違いだったのかと思いたくなるほど、普通の顔で眞吾がへらっと入ってきた。
機嫌良さそうだなと少しだけほっとしたものの、慎吾の猫かぶりというか人当たりの良さは、それこそ筋がね入りだからな、と真白は思った。

まぁでも、こうなってものはしょうがない。
と言う、なんともおざなりな結論で思考を片隅に追いやって、真白は、まったり男3人飯を満喫することにした。
だがしかし。追いやったものは、時が経つと舞い戻ってきてしまうわけで。


――あ、なんかやっぱり怒ってやがる、こいつ。

真白がそう確信したのは、ご機嫌に野々村が出ていってからだった。

「なぁ」
「んー、なに。洗い物しちゃうからさ、机の上の持ってきて」

会話になってねぇ、と内心思いながらも真白はよいしょと当人比速やかに立ち上がった。
台所に立ってる背中が地味に機嫌の悪いオーラを発している。

「なぁ、おまえさ」
「だからなにって。折角立ってんだったらそれ拭いといて」

はい、と、手元に視線を落としたまま器を渡されて、間違いなく怒ってる、と、真白は再認した。
怒ってるときとか、何か一物持ってるときだとか、とりあえず平静でいられないらしいとき、慎吾は絶対目を見ない。
ただ、その感情の波が分かったところで、原因なんて分かるわけがないのだけども。

布巾で水気をふき取りながら、真白は何となく幼馴染みの横顔を見てみた。
一応同学年なはずなのに、昔からずっと、プラス10cmを見上げている気がする。そしてそれは、身長ばかりの話でもないような気もしている。

でもそれにいつまで甘えていていいんだろう、とふっと思った。

「なぁ、慎吾」
「だからなんですかってば。ほら、これも」

追加された器を受け取りながら、「おまえさ、こういうの迷惑?」と真白は直に訊ねてみる。流れるように動いていた慎吾の指先が、僅かに動きを固くした。

「こういうのって、うーん、そうだねー。いきなりは止めて欲しいかもねー」

俺にも一応予定ってのもあるからねぇ、と、口元だけで笑って、慎吾は鍋に取り掛かりだした。
それは、何の予定なんだろう。誰のためのものなんだろう。
そんな風に考えてしまっている自分が意外すぎて、でも、あぁ駄目だなぁ、と真白は思った。

慎吾に、自分の面倒を当たり前の様に看てくれている幼馴染みの存在に、依存しすぎている。

思考を遮断するように、真白は軽く目を閉じた。


「別に、いいよ」
「……え? なにが?」

きゅっとノズルの閉まる音がして、流水が止まる。隣を見上げると、久しぶりに目がしっかりあった気がした。

「だから、別にいいって。おまえが面倒なんだったら。俺だって一人でもできるし」

もう一度そう繰り返すと、困惑した顔で慎吾が笑った。

「ごめん、しろ。それ何の話? ちゃんと主語、言って?」
「だから別にいいんだって。おまえになんか予定あるんだったら、それ優先したら。無理やり俺に構ってくんなくていいよって」

だって、それが普通なんだろうとは、さすがに真白でも分かる。その幼馴染みは、気色ばんだ顔色を垣間見せて、けれど結局、嘆息しただけだった。
そして「あのね」とまるで言い聞かせるように、俯きかけていた真白と視線を合わせてきた。

「俺が、今まで一回でも、しろより誰かを優先したことってあった?」
「でも」
「でもじゃないでしょ、ないでしょ、そんなもん。真白の相手するのが嫌だったら、もっと前に言ってる。それにいくら俺が面倒看良くてもね、嫌嫌だったら、こんな半年間も続けないって」

慎吾が本当にそう思って言ってくれているのだと言うことは、真白には当たり前に理解できる。
でもそれが、いつまで持続するのかまでは知らない。

恋人と幼馴染みとどちらが優先なのかとなれば、それは恋人なんだよな。
今は、今までは、それがいないから俺を最優先してくれてただけだ。

「俺がさっき言ってたのは、野々村さんの話だからね」と念押しされて、真白は「うん」と頷いた。

まぁでも今いてくれるのならいいか。この妥協が、結論を先延ばしにしているだけだと分かっていても、今の真白にそれを考えるのはまだ少し難しかった。
「うん」ともう一度、慎吾の目をしっかり見て頷く。慎吾は柔らかく笑った。作り物じゃない顔だ。
ノズルを捻って、慎吾は鍋洗いを再開し出したのを見て、真白も拭き終えた皿を定位置に戻す作業に取り掛かることにした。


「ねぇ、しろはさ」

なんでもないことのように慎吾が言った。

「俺がこんな風に入り浸ってんの、嫌だったりしないの?」

何をいまさら、と思いつつ、真白は「そんなわけないだろ」とぶっきらぼうに言い放った。
それこそいまさら過ぎる。

もはや慎吾は、真白にとって、空気みたいな存在なのだ。


【END】

お付き合いくださりありがとうございました!