ガチャンと微かに壁が軋んで、部屋の前を通過した気配がした後、階段を下って行った音がした。
あぁあいつまたどっか行ったな。っつかどこにそんだけ出かけるところあるんだよ、と思いながら、真白は布団の中で寝返りを打った。
不眠とか、一番自分には無縁の産物だと思っていたのに、眠れない。
慎吾がいたら、そっちに行くのに、と、頭に浮かんだ考えに真白は頭を振った。
いや、違うだろそれ。
喧嘩したと言うよりかは、俺一人が拗ねてるだけな気がしないでもないけども。
でもムカつく。自分でも驚くくらいにはもやもやしている。
「……こんなの、いつぶりだ」
呟いてみたものの、まったく分からなかった。
基本的に真白は面倒くさいから人に対してどうのこうのと怒らない。怒りの感情も持続しない。長所かと言われれば短所かもしれないと悩んでしまう部類の性格だけれども、でも、そうだった。
依存、し過ぎてんだよな、そもそもが。
隣の部屋からの気配が感じられないというそれを、寂しいと思うの事態がどうかしている。
【隣と修羅場】
人間、頭がしっかり働いていないと、ろくなことを考えないらしい。
ここ最近、地味な不眠に悩まされていた城崎真白はそれを痛感していた。
なんというか、どうにもならないマイナス思考が無限ループを繰り返している気がしてならない。
これはよろしくない。
「おまえ、凶悪な顔してんなぁ。隈すげぇことになってんぞ」
すれ違いざまシフト上がりに、大悟に言われて、真白は無言で見返した。
「たぶんもう見れねぇぞ」
「いや見れても見れなくてもどうでもいいけど。なんだよ、今の時期レポートとかあったっけ?」
「そう言うあれでもないけど」
「じゃああれかー、彼女と喧嘩でもした……って、おまえいねぇよな、彼女」
クリスマス前に突撃して振られたか、と、笑われて、「違ぇよ」と真白は眉をひそめた。
と言うか彼女とか言うな、あれはそんなあれじゃない。と、誰宛なのかさえ分からない言い訳を一瞬で脳内でしてしまって、真白は一層げんなりと項垂れたくなった。
「いや、ちょっとなんというかなあれだったんだけど。もういいわ、面倒だから」
たぶん、顔を見合わせたとしても気まずいのは一瞬だ。
あのあほは、きっとなんも考えてなかったんだろうし。ちょっと悪乗りしすぎたかなぁ、くらいは思ってるかもだけども。どうせなんで俺が怒ってんだろうって持て余してるに決まってる。
「面倒だからって、おまえ、よくねぇぞー。脳みそ腐んぞ、そうやって考えんの放棄してっと」
「腐るか」
そんなんで腐るんなら、とっくの昔にそうなってるはずだ。そもそも今回は最長記録じゃねぇかってくらい考えたぞ、と、真白は自分で自分を褒めてみた。だって誰も褒めてくれない。
「まぁいいけどさぁ、あんま適当に放ってるとそのうち爆発すんぞ?」
微妙に心配している顔で言われたそれに、「そんなんでもねぇよ」と真白は憮然と言い返した。
生まれた頃から一緒にいる幼馴染みと、仲違いし続ける図も、遠慮し合う図も、浮かび上がりようがない。
ただ、あいつの何人もいるようなセフレと同じようなものに見られたんじゃないのか、と思ってしまった疑念が、自分の中であのとき、どうしようもなく許せなかったと言う、それだけだ。
なんだかなぁ、と思うものの、今の状態のままは落ち着かないんだよなぁ。
いい加減どうにかしないとまずいんだろうなぁと頭の片隅で分かっていながらも、惰性なのか習慣なのか、真白は慎吾が近くにいないと落ち着かないと言う大変残念な自分を自覚してもいた。
らしくない溜息を洩らしつつ、夢見荘の暗い階段を上がっていた真白は、ふっと上げた視界に飛び込んできた光景に「げっ」と正直すぎる声を出してしまってから後悔した。
俺の客じゃない、とスルーしたかったのが紛れもなく本音のだけれども。
慎吾の部屋のドアにもたれかかる様にして座り込んでいた男が、真白を見とめてやたらと挑発的に笑ったのが分かった。
……あの野郎。
悪態を吐きたい相手は、絶賛喧嘩中の男たらしの幼馴染みだったが。今現在、ここにいないのだからどうにもならない。
ここで回れ右するのもさすがにいかがなものかと思った真白は、出来るだけ座り込んでいる物体を視界に入れないように自室のドアノブを回そうとしたのだけれども。
「ねぇ、ちょっと」
と、そう呼び止められて無視できるほど、ひどい人間にできていないのだった。
どうにも回避できない嫌な予感を覚えつつも、真白は、声の主に視線を転じた。寒くないのか、と思ったのは、ここで立ち止まった自分がめちゃくちゃ寒かったからだ。早く部屋に入りたい。
「慎吾、たぶん遅いと思うけど」
それで会話が終わってくれることを願っていたのだが、相手は、不本意そうに眉間に皺を寄せただけだった。
立ち上がって近づいてきたその男は、自分と同じような小柄な体格で、でも自分とは違う高そうな服を身に纏っている。
「そんなこと別にあんたに教えてもらわなくても知ってるから」
「……じゃあなんでいんの、ここに」
げっそりそう応えると、「あんたに言いたいことがあったんだってば」とさらにげんなりすることを言われてしまった。
言いたいことって、俺は一切ねぇよ、聞きたいことも言いたいことも。
「って言うかあんたさ、慎吾と付き合ったりとかしてんの?」
「え? 付き合うって、」
何をだ。
思考が停止した真白に、「だからさぁ」と苛々と男が詰め寄ってきた。
「慎吾のこと好きだとか、ヤッたとか、そう言う関係なのって聞いてんの」
その言葉の意味を徐々に理解し出した頭で、「あるわけねぇだろ」と真白は吐き出した。
「そんなもん、あるわけねぇよ。おまえと一緒にすんな」
自分の感情をは思えないくらい、波打つようにささくれ立っている。
なんでそんなもん、こんなやつに言われないと駄目なんだ。
「ふぅん、ならさ、幼馴染みだかなんなんだか知らないけど、慎吾、あんまり束縛しないでよ」
だからなんで、そんなことをこいつに言われないと駄目なのか。
ちょっと落ち着け、と、どろどろしている自分の中を諌めつつ、「そんなことしてねぇよ」とだけ言い返した。
束縛しているわけじゃない。俺と慎吾の間の日常は、そんな単語で解されるものじゃないはずだった。
「慎吾もこんなんのお守りで大変だねー。俺と遊んでた方がよっぽど楽しいだろうに、慎吾面倒見良いじゃん」
だからあんたの傍に義務みたいにしているだけじゃん。
そう嗤われた瞬間、募り続けていた苛立ちが爆発すると言う感覚を、生まれて初めて真白は実感した。
次いで、生まれてこの方喧嘩なんて無縁だったはずの男は、これまた初めて人の顔面を殴っていた。
驚いたのかよろけてそのままへたりこんだ相手を見て、「あ、やばい」と冷え始めた頭で真白は思った。
たぶんそんなに強くはやってないと思うんだけれども。
一瞬脳裏に流れた考えに、いやそう言う問題でもないだろ、と首を振る。
「悪い」と謝りかけた瞬間、なんでこのタイミングなんだと思いたいレベルで響いた靴音に、真白は手を差しだしかけた状態で固まってしまった。
何故だ。どうせ帰ってくんなら、あと10分早く帰って来いよ、と、うんざりしながら、真白は階段を振り返った。相手も気が付いたのか、そっちを見ている。
「……なに、してんの?」
真白と頬を押さえたまま座り込んでいるセフレとを見比べて、姿を現した慎吾が険しい顔をした。
その今まで見たことがなかったような厳しいそれに、真白は自分の身体が微かに強張ったのを感じていた。これ、どう考えてもあれだよな。俺が日頃の鬱憤を晴らしたみたいなそんなあれだよな。
そう思ったのは奴も一緒だったのか、我が意を得たりとばかりに「慎吾」と叫んだ。
「ちょっと慎吾聞いてよ、そいつ、急に俺に殴ってきたんだよ?」
ひどくない? と、へたったまま訴えかけている男の台詞を、真白は今一つ訂正できなかった。
ある意味そうではあるけれども。
捲し立てている男に視線を向けていた慎吾が、不意に自分の方を見た。
怒られる、と、反射のように思ってしまったのは、基本的に笑っているイメージの強い幼馴染みの表情が、硬いままだったからで。
けれど予想に反して、慎吾は小さく息を吐いた後、真白の頭を撫でるように叩いただけだった。
そしてまるで真白を背に庇うようにして、押しかけてきていた男の方を向いた。
「っつうかさ、おまえがこんなとこで何してんの」
「何って……、っていうか、そいつが急に殴ってきたんだってば! 俺の話、聞いてんの? なんで俺が責められないと駄目なわけ!?」
「真白は、おまえが何もしてないのに、殴ったりしない」
真白が驚くくらいきっぱり言い切った慎吾の言葉に、その男は、驚いたように目を見開いて、それから唇を噛んだ。
「南さ。そもそもあのとき別れるって言ったし、おまえもそれでいいって言ったよね? なのになんでこんなとこいんの?」
そもそもそれが謎だわ、と、日頃の当たりの良さを捨てきったきつい物言いで、慎吾が吐き捨てる。
男の顔にかっと血がのぼったのが分かって、真白はなんだかひどく居た堪れなくなった。あぁこいつ、慎吾のこと好きなんだなぁ。
「慎吾」と真白は小さく腕を引いた。
「俺が殴ったのは事実だし」
だからそこまでそいつだけにきついのはちょっとお門違いだ、と。そう告げると、慎吾は困ったように顔を和らげて、でも、と言った。
「そうしちゃうくらい、嫌なこと言われたんじゃないの?」
馬鹿じゃないのか、と思ったのはどっちに対してだったんだろう。
真白はここ最近溜まっていた澱みが、静かにまた流れ出してくのが分かった。慎吾の中で、セフレの男よりも、大事にされている。
そんなことを思ってしまった。
黙り込んでいた男が、「もういい」と吐き捨てるように言って立ちあがった。
「もういい、俺がすげぇ馬鹿みたい」
そのまま階段を下って行こうとする細い背中に、真白は謝った方が良いのかと考えた。けれどそれはもしかしたらものすごくプライドを傷つけるんじゃないだろうか。
「南」
その思考を断ち切る様に、慎吾が階下に声をかけた。「もう来るな」
情の一切もなさそうなそれに、階段を下っていた音が一瞬途切れて、けれどすぐに、激しい音と共に駆け去っていくのが分かった。
ちょっとひどくないか、と思ってしまったのは、自分の心にだけゆとりが戻っているからなのかもしれない。
心の中で先ほどの南と言うらしい男に手を合わせて、真白は久しぶりに顔を合わせた幼馴染みを見上げた。
慎吾もなんだかいろいろなものを呑みこんだ表情で、見下ろしてくる。
「さて、どうします?」
しばらくの沈黙の後、発せられたのはそんな言葉だった。
「ひさしぶりに、俺とごはん、どうですか?」
そんな優しく言われて、俺が断れると思ってんのか。理不尽極まりないことを思いながら、真白は小さく頷いた。慎吾が笑った。
【END 】
お付き合いくださりありがとうございました!