久しぶりに熟睡できたような気がして目を開けると、視界に映りこんできたのは見慣れない白い天井だった。
「あ、千沙、目ぇ覚めた?」
「……しろ?」
間近で聞こえた声に、視線を巡らすとパイプ椅子に腰かけていたしろが、困ったように小さく笑った。
「千沙、我慢しすぎ。胃に穴空きかけてたらしいよ?」
「マジで?」
「ほんとだって。急に倒れるから俺、どんだけびっくりしたと思ってるの」
……そう言われれば、あの技術室でしろに縋りついた以降の記憶がない。
やらかしたなと思う反面、どこかすっきりしたような気分だった。
「さっきまでお兄さんいたんだけどね、今、ちょっと外してる。そのうち戻ってこられると思うけど」
「あー……そっか、悪い。迷惑かけて」
ここまで運んできてくれたのも、連絡をつけてくれたのもしろなのかと若干申し訳ないように思う。そしてずっと、ここにいてくれたのか、と。
そう告げると、しろは微笑を引っ込めて、あまり見せない真面目な顔をして姿勢を正した。
「千沙」
呼ばれる声音の固さに、俺の方がなんだか緊張してしまった。それでも黙ったまま見つめていると、しろががばっと頭を下げた。
「ごめん。俺、そこまで千沙を追い詰めてるって、気づいてなかった」
それは浮気を繰り返していたことというよりかは、俺が倒れたりしたからだろう。
基本的にどうしようもないけど、それでもしろは優しいから。
それでもあのいつもの定型化した謝罪よりかは、重いんだろうか。
「意味ないかもしれないけど、言わせて」
ゆっくりと顔を上げて、視線を合わせたしろは、同じ真剣な表情のままだった。
「俺は、千沙が好きだよ。本当に」
何度だって聞いた同じ言葉のはずなのに、何故かひどく胸が詰まった。
また同じかもしれない。苦しいだけかもしれない。しろはまた繰り返すかもしれない。でも離れていても苦しくて。だったら同じ苦しいなら、一緒にいたいとそう願った。
絞り出した声は、馬鹿みたいにかすれていた。
「だったら、いろよ、ここに。ずっと」
「……うん」
自分がどうしようもなく勝手なことを言っているのは、分かっていた。なのにそのしろが、やたら愛おしそうに目を細めるから、困る。
「俺は本当に、千沙さえいたら、それでいいんだ」
噛みしめるように呟かれたそれに、また胸が詰まった。
信じたくなる。それで今度また裏切られたら、今よりずっとしんどくなるのは目に見えているのに。
でも、信じていたかった。
「そうだ、千沙」
緩やかに微笑んで、「はい」と俺の手元に押し付けてきたのは、しろの携帯だった。
「千沙にあげる。好きにしていいよ」
「好きにって……」
「言ったでしょ? 千沙以外、いらないからって」
しろの台詞に促されるように、手の内に収まった薄い携帯に視線を落とす。
例えば、ここに登録されているアドレスを消せば、不安は消えるのだろうか、とか。
しろはもうずっと浮気しないのだろうかとか。
指先がアドレス表示のボタンに触れて、けれど結局その行為を実行に打つなさないまま、画面を閉じる。
「……しない」
「いいの? 好きにしていいよ、本当に」
それで少しでも千沙の不安が消えるんなら、と続けるのを、いいんだと短くさえぎった。
そんなのは、なんの意味もないんだ、きっと。
「いいよ、そんなんなくて。でも――うん。もう一回、信じてみたいから」
もう無駄だと思わないで、もし無駄だったとしても、そうなるまで。
もしそうなってしまったら、それは――、
「千沙さ、前に俺のどこが好きだったんだって、そう俺に訊いたよね。俺ね、千沙がいたらもうそれだけでいいんだ、本当に。どこが好きになったのかもう理由なんてわからないくらい、千沙がいるだけで」
凪いだように穏やかに綴られるそれは、不思議なくらいすとんと中に落ちてくる。
でもしろを信じたいと俺がそう思うのは、しろのためなんかじゃないんだ。あくまで俺がそう思いたいからなだけで、いわば俺の勝手で。
しろを好きだと自覚したときのことをふっと思い出した。今までずっとその記憶にだけ、俺は縋ってきていたけれど。
「……俺もそうなのかもしれない」
たぶん言うつもりはなかった。本当に思っていたかどうかすら怪しい。
でも、なぜかそんな言葉が零れ落ちた。
その瞬間、表情を覆うようにしろが俯いた。長めの前髪に覆い隠されたしろがどんな顔をしていたのか、何を思っていたのか、俺には分からないけれど。
「ごめんね、千沙」
ぽつりと吐き出されたそれは、泣き出しそうな響きを滲ませていた。
お付き合いくださりありがとうございました!