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嘘吐きな恋人《4》

「おー、お帰り、千沙」

地味に痛いような気がする胃を押さえながら家に戻ると、想像していなかった声に出迎えられた。

「あれ兄貴、帰ってきてたの」

大学に進学した兄貴は、去年の春から一人暮らしを始めている。この間、前期のテストが終わるまで帰らないって言ってた気がするのに、と思いながら見上げると、俺とはあまり似ていない男前な顔を緩ませた。

「景気悪い顔してんなぁ、姉ちゃん心配してたぞ」
「それでわざわざ戻ってきたって?」

心配してくれてるんだろうとは思うけど、苛々する。木原にしても兄貴にしても。
そんな風に思われるほど、ダメージなんて受けてない、つもりだ。

靴を脱いでそのまますり抜けようとしたはずだったのに、まぁまぁまぁと宥めるように腕を掴まれたままリビングに連行された。「あの人も心配してたんだって」と困ったように笑う兄貴に、知るかほっとけと悪態を返せるわけもない。

「無理して話せとは言わねぇけど、おまえ溜め込むから。だから姉ちゃん気にしてんだと思うよ」
「別に溜め込んでねぇし、ほんとそんな言うような話でもないんだって」

ダイニングテーブルに頬杖をついて視線を落とす。と言うか、兄貴に言える類の話じゃない。

「っつかそんなんでわざわざ戻ってこなくて良いのに、ホント」
「しょうがねぇだろ、姉ちゃん、おまえは絶対あたしには何も言わないって、あたしのことまだ許してないんだもんってヒステリックに電話してくんだから。夜の2時とか寝てたっつうの」

若干面倒くさそうに零した兄貴に、そりゃ災難だったなと同情する。姉貴のヒステリーほど鬱陶しいものはない。
そんな俺の沈黙をどうとったのか、まだ整理できてねぇのと窺うように兄貴が言う。

「別に、っつか、それとこれとは関係ねぇよ」
「まぁなんつうか……、千沙が納得いかなくてしょうがねぇとは思うけどさ」

じゃあ兄貴は納得いってんのかよ。そんな子どもみたいなことは言いたくなくて、視線を落としたままで何も口にしなかった。

母親が浮気して親父と離婚して家を出て、それだけでも十分浮気性な女は信じられないと思ってはいたんだけど、そのときはまだ何とかなっていた。
俺より6つ年上の姉貴がそんなどうしようもなかった母親の穴を埋めるように、あたしは絶対浮気なんてしないからね。いつか絶対幸せな家庭を築くんだからと何度もそう言っていて。

あぁそうだよな、それが普通なんだよな、と。母親だった人がおかしかったんだよなと、そう。

「千沙が嫌だって思うのはしょうがないってほんと思うけどさ、たぶん姉ちゃんにもいろいろあったんだって」
「結婚してすぐに浮気するような、いろいろが?」

ぼそっと漏らすと、兄貴はきまり悪げに息を吐いた。
別に、本当に俺だって今更こんなことを穿り返したいわけじゃないのに。なのにこれを蒸し返してくる兄貴は、俺の苛立ちの原因の大元がそれだと考えているのだろうか。
俺が中2の時に結婚した姉貴は、高1の夏にはもう家に戻ってきていた。離婚の原因は、姉貴の浮気だった。

「まぁ、心配してんのは、ホントなんだろうし。俺ももちろん気になるし」
「それは……分かる、けど」
「俺に話しにくいんなら、ちゃんと友達に言えよ。ほら、城井くんだっけ。姉ちゃんのごたごたんとき、おまえが荒れてんの、すごい心配してくれてた子、いたじゃん」

唐突に出てきたしろの名前に、一瞬反応が鈍った。誤魔化すようにゆっくり瞬いて「あぁしろね」と首肯すると、そうそうと嬉しそうに兄貴が破顔した。

「おまえと連絡取れないからってわざわざここまで来てくれたんじゃん、いい友達なんだから大事にしろよ」

もう説教は終わりとばかりに俺の頭をかきまわす兄貴の手をやんわり退けながら、その言葉を反芻する。

良い友達、ねぇ。

でもそれが一概に否定できないのも本当なのだ。俺は確かにあの時、しろに救われた。
ダメダメだった俺の話を真正面から聞いて抱き留めてくれたのは、しろだった。
俺を好きだと、自分は絶対浮気なんてしないとそう言ったのも1年前の、しろだ。

あのときは、それが全部みたいだった。それに縋って、幸せで、馬鹿みたいに浮かれていた。

そんなの――浮気しない人間なんていないのだと、分かっていたはずなのに、あまりにも真剣な目でしろが言ったから、ついうっかり信じてしまって、それがもう馬鹿だとしか言いようがないんだけど。

「いい奴、な」

知らずこぼれた台詞に、兄貴が意外そうに眉を上げた。

「元気ない原因って、もしかしてそれだった? 城井くんと喧嘩でもしたとか」
「そんなじゃ、ねぇし」

喧嘩じゃ、ない。というかきっと、そういう双方向性の次元じゃない。
机の上に顔を押し付ける。頬が冷たくて気持ちよかった。かすかな溜息の後、柔らかい兄貴の声が落ちてきた。

「今俺、朝一の講義とかないからさ、しばらくこっから通おうかと思って」
「……帰っていいのに。っつうか帰れば」
「かわいくねぇこと言ってねぇで、素直に喜んどけっつうの。とっとと仲直りしろよ、こじらすと面倒じゃんなんでも」

うんと返事だけは返したまま、しろのことを思った。
俺は千沙が一番好きだ、と。大事なのだと。そう囁いて落とされる言葉一つ一つに、優しく触れてくる熱に、好きだと思った。幸せだと信じていた。
俺はしろだけで、しろも俺だけだと馬鹿みたいにそう盲信していた。

だから、初めてしろに浮気されていたと分かった時は、ひどくショックだったけれど。

違う、俺してないよ、千沙の勘違いじゃないの? 
そう言い募るしろを思いっきり殴った。本当に違うんだってと、そう言いながらそれでも何もやり返してこないしろに、なんだかすとんと力が抜けた。
悔しかったし悲しかったし、腹も立っていたしもう頭の中がぐしゃぐしゃで。最悪だ、おまえなんか嫌いだとそう言ってしまいたかったのに言えなくて。

縋るみたいにしろの襟首を掴んで、?みつくようにキスをした。
安堵したようにしろは、俺を抱きしめた。俺が好きなのは、特別なのは、千沙だけなんだからねと囁くそれは、もう苦しいだけで、空しいだけで。

あのときみたいな、幸せな感覚が訪れればいい、そんな夢想はあっという間に消え去って。


それでも、俺はしろから離れられなかった。しろを嫌いだと言えなかった。
「好きだよ千沙」と告げたしろに、「俺もだよ」と返さなくなったのは、最後の意地なのかもしれなかった。

それでも結局、終わりにできないのだから、しようと思えないのだから、なんの意味もないものだと分かっている、けど。


今俺がしろを嫌いになれない、捨てきれない理由があるとしたら一つは間違いなくそれだった。

あのときの感覚が忘れられなくて。
しろは俺だけじゃないんだと分かった今でも、俺は馬鹿みたいに願っている。祈っている。
あのときのしろの熱はきっと本物で、またしろが本当に俺だけだと言ってくれるのではないかと期待している。


――馬鹿みたいだと、本当にどうしようもないと分かっているのに。

ズキンと、もはやどこか分からないところが鈍く痛んだ。

お付き合いくださりありがとうございました!