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嘘吐きな恋人《9》

これでもうバカみたいな胃の痛みとはおさらばだ。そう思っていたはずなのに、なぜか以前に増して痛む気がしている。

割り切りたかったはずで、割り切ったつもりで。でもそれができていないのだと痛感させられる。
無駄に正直な身体を、心底いやだと思った。


**


あれ以来、しろが近づいてくる回数は激減した。
それでもふと思い出したように傍に寄ってきて「千沙」と変わらないように感じる甘い声で俺を呼ぶ。
そのたびに苦しいように思うのが、もう嫌で、どうでもよくなれ、嫌いになれと、俺は今も念じ続けている。


「ちょっと南、あんま、ぼーっとしてて怪我しないでよ」

急に背後から振ってきた声で、落ちていた思考がふっと引き上げられた。
「悪い」としゃがみ込んだまま振り向こうとした瞬間、膝が当たって釘が入っていた箱にぶち当たった。
そうなると当然、中身はばらまかれるわけで。

派手に床に散らばったそれに、声をかけてきた山岡が「あーぁ」とほら見たことかと言わんばかりの声を出してくれた。
が、半分は山岡のせいな気がする。面倒くさいから言わないけど。

「悪い悪い、千沙はちゃんと俺が見とくから、山岡、外見てこいよ。看板のやつらペンキ壁に飛び散らして遊んでたっぽいよ」

いつのまに隣に来ていたのか木原が、俺より先に山岡に謝りながら釘を拾い集め始めていた。
手伝わないとなと延ばしかけた手は、いいよもうできるからと木原に押し止められて終わる。
そんな俺はぼーっとしてるように見えてるのか。

「ってか木原、知ってんなら止めてきてよ、なんであたしが」
「だってあいつら俺が言ってもきかねーもん。がんばっていってらっしゃい、委員長」

笑顔で手を振る木原に、山岡が諦めたように肩をすくめて、廊下に出ていった。

「……悪い」
「いやいいけどさー、マジで怪我すんなよ」
「そんなぼーっとしてたつもりねぇんだけど」
「そうかー? 山岡、さっき4回くらい千沙のこと呼んでたよ、ぜんぜん聞こえてなかったっしょ」
「マジで?」

それは本気で聞こえてなかった。だからあんな大声になってたのか。
冗談でも山岡の所為だとか言わなくてよかった。どんな墓穴だ。
釘箱に零れていたのを戻し終えた木原が、見てる方が怖いと俺の手からトンカチを奪っていった。
俺なんかよりよっぽど手早く作業を仕上げていくのを、なんとなく見守ってみる。
開け放たれた窓から「真面目にやんなさいよ」と件の連中を注意している山岡の声が聞こえてきた。

7月に入ってから、夏休み明けに行われる文化祭の準備に6限目が宛がわれる日が増えてきた。祭りの縁日をイメージしたらしいうちのクラスは、射的やら輪投げ台やらと作るものが多い。
机を教室の後方に押しやってあけられたスペースで、今も何グループかに分かれて着々とそれらは仕上げられ始めている。

「千沙さ」

器用に釘を打ち込みながら、木原が口を開いた。盛り上がっているクラスメイトの声にかき消されそうな音量のそれに、あぁしろの話なんだろうなと察してしまう。

「このまま止めた方がいいと思うよ、俺」
「んー……」

分かっては、いる。そのつもりでもいる。
ただなんとなく現実味がないのも事実だ。

「俺、さっきもさー、準備抜け出して三浦と一緒にいる城井見たよ」

なんでもないことみたいに淡々と告げるくせに木原の横顔からは、押し殺し損ねた苛立ちが透けて見えた。
へぇと軽く相槌を打ちながらも、勝手に気分は落ちていく。それが腹立たしくてまた落ちる。何の悪循環だ、これは。

「止めろよ、もう。別におまえ、男が好きなわけじゃないだろ。中学の頃は普通に彼女いたことあったじゃん」
「まぁそうだよな」
「うん。宮原とかもさ、結構かわいかったじゃん。なんで別れたんだったけ、おまえら。……あー、や、悪い」
「いいよ、別に」

別れた理由に思い当たって、気まずげにもごもごしだした木原に俺は小さく微笑った。
別にそれは本気で気にしてないし、っつうか半ば忘れてたし。

中2くらいのときに向こうから告ってきて、なんとなくで付き合って、で中3の夏くらいに他に好きな人が出来たからとさらっと振られた。
そのときはショックだったけど、正直に告げてもらえただけ良かったと思う。それで二股とかされてたら、本気であの時点でトラウマ確定だ。

あぁでも、所詮ずっと同じ気持ちなんてないんだとか、女ってあっさり心変わりするんだなとか、引き気味になる一因にはなったかもしれないけど。

木原が「あ、しくった」とぼやきながら、金槌の後ろを使って曲がった釘を引き抜いている。
またしばらくリズミカルな音が続いた後、手元に視線を残したまま木原が呟くように問いかけた。

「おまえ、なんで城井がいいの」

――瞬間、時間が止まった気がした。


うだるような暑い夏の日。
空から降る雨もどこか生暖かくて、でもずっと当たっていたからか身体は少しずつ冷えているような気がした。
でもそんなのもどうでもよくて、このままでいいかな、もうどうでもいいかなと、そう思っていたその時、傘をさしかけてくれたのはしろだった。

心配したと怒ったような泣きそうなようなそんな顔で、抱きしめてくれたのはしろだった。


「………忘れた」
「ふぅん、まー、あいつも最初はあそこまでじゃなかったもんな。……お、よし出来た。なー、千沙、これ良くね? 超いい出来じゃね?」
「あー、はいはい。いいんじゃね、もうそんなんで」

良くは分からないけど。でもたぶんと言うか確実に、俺が作るよりかは上手く出来てるんだろう。

賑やかなクラス内の声。開け放たれた窓から入ってくる生ぬるい風は外でも盛り上がっているらしい気配も一緒に運び込んでくる。
不意に苦しくなった。これが普通なんだと、日常なのだと強く意識する。たとえ今この瞬間、しろが三浦とどこでなにをしてようとも。

――嫌だ。

違う、そうじゃないだろ。もうどうでもいいんだって。どうでもいい、どうでもいい。
しろが何をしてようが、関係ない。

関係ないと、そう決めただろ、――なぁ。
なんで決めたことくらい、ちゃんとやりきれないんだ。
知らず手がシャツの胸元を握りしめていたらしい。木原が物言いたげに窺っているのは分かっていたけれど、笑顔は作り損ねたものにしかならなかった気がする。

お付き合いくださりありがとうございました!